人間の社会

僕にとって問題に感じることは、社会が正しくないことではなく、問題そのものだ。つまり社会に正しさが足りないのではなく、問題を抱える社会という事実を直視しなければ、問題提起も効果的でないと思う。

日本では、理解よりも納得を重視する文化が根付いており、雰囲気で問題を消してしまう力を持っている。そして正しい側にいるという優越感は持ちたくない。どこかで他者を見下してしまう心を生むからだ。


予測ができないものと説明ができないものは同じではない。これを混同すると、人間の行動や社会の動きを見誤る可能性がある。両者の違いを理解することが、問題の多い社会には重要になるだろう。社会的な裁量の問題は、算数的な論理ではなく、国語的な解釈で問われるものが多い。

人間性とは即興性に近いものだ。理屈がなければ動けないというのは、人間性の弱さを表しているのかもしれない。すると、私たちの動物としての挙動が人間性なのかもしれない。

動物は地面や空、水などと接している。そして権利や概念といった理屈に従う挙動ではなく、自然空間の生態系が生に与えられた「善」として、それらと接している。生き物にとって空間に存在するのは、問題ではなくただ対処すべきことなのだ。問題よりもむしろ、生物にとっての動きや判断の負荷が大きい。

イナフ(十分さ)を当然視することが、現代の私たちに課せられた一つのテーマなのではないだろうか。それを当然としたら、社会や個人のあり方にどのような影響を与えるのか。その問いを投げかけることで、問題はかなり消えてしまうかもしれない。


善か悪かという二元的な判断で人間を考えたら現実が見えなくなる。素朴で、良いところも悪い所もあるような人は想像できると思う。人間は善か悪かではなく、あの人は穏やかでこういったこだわりがあるだとか、あの人はわがままで強引だが他人をリードするので成功部門では尊敬されるだとか、そういった見方の方が圧倒的に素直だと思う。

また善とは幅が広く限度がわからない。対して悪は最低線を超えてしまったものという見方においてはまだ捉えやすい。

主要なところではナルシシズム、マキャベリアニズム、サイコパシーなどあるが、例えばナルシシズム傾向が抑えられないだとかそういった裏面のグレーなところが元になって、何かをしてしまう「危うさ」が人間の悪的なところではないだろうか。いうならば、優しさなどのストッパーを壊し、自己の肥大化を手に入れることもできる。心を壊す知識が悪魔的なのではないだろうか。


現代人は「言葉が先にある」と考えがちだが、実際には挙動が先で言葉が後に続く場合も多い。この固定観念が、物事の捉え方を狭めてしまう。そして世の中は、あまりにもうまく作られすぎてしまった。

その結果、賛成と反対の立場が固定化されてしまい、柔軟な態度を取ることが難しくなっている。思考の自由がもう少し幅を持てるのなら、賛成も反対も曖昧で、はっきりとした答えが出せないことが自然だろう。しかし、今の社会では曖昧でいること自体が許されないように感じる。身動きしにくくなる方向に社会が進んでいる。


理由で人の意思を変えることができるという前提は、他者が十分に理性的であるという期待に基づいている。ではなぜ、感情にアプローチしていくのだろう?ビジネスでよく行われているそれが、倫理的に問題がさほどないのだというのなら、人間が理性だけでは動けない存在であることを前提としなければならない。

本能はそうだと認めながら、一部の性などは歪んだ行動のように扱う宗教観が残っている。おそらく性が問題なのではなく、欲望が止まらないこと、理性が感情に負け続けることが問題ではないか。

だとしたら、感情をつかんでいくビジネスには問題がある。これを正当化するために、性を商品化していく。手に入れたかったら収入が高いとか、魅力が高いとか、そういったものと引き換えになる、資本主義が人間を蔑ろにしはじめるとこのようになる。


また、言葉が思考を変える力を持つことは理解できるが、それが現実そのものを変えるわけではない。たとえば、災害時に言葉をこねくり回しても状況は好転しない。言葉は自分の内部を変えるために使うのなら効果的だと思うが、同時に変わっていく現実に抗って、自分を変えないために使うこともできる。そういった権利の使い方もある。

言葉の使用を誤って、対応できる世界を狭め、本来の自分の成長変化を歪めてしまう。ある運命が決定されていて、そこに辿り着くまで言葉で自分を変えていく両立論的自由選択しかなくなる。


アイデンティティは、発見するものではなく、元々そこにあるものだ。しかし、それは固定的なものではなく、自分を生きる過程でずれていくこともある。これが第二のアイデンティティと呼べるものだ。そして、緊急事態や非日常的な状況下で現れる第三のアイデンティティも存在する。

しかし、安心が重視される現代では、この第三のアイデンティティは市場世界によって、キャラクターやバーチャルなアイデンティティに置き換えられ、人間の心理的な脆弱性を助長している。実際には緊急事態は起こりうるが、その時に現れる第三のアイデンティティが育てられていない。

ポジティブ啓発は、私がテーマであり、社会を変えることが先立ってはいないようだ。これはつまり、人生の底を脱しようとする時に有効だ。ただし、その考えが行き過ぎると、我の強さから他者を押し除けることを厭わず社会を変えようといった、理想のために犠牲やむなしという「黒い積極性」を隠し持った使命感に至る場合がありうる。そのままでは縦型社会になるし、縦型社会を肯定し続けることで、納得し続けられる。

またそこまでうまく進まなければ、ただわがままで終わる人も出てくるだろう。このような極端な状況に陥る前に、核の思想であってもアップデートを検討できることが大切ではないだろうか。


「わからない」に生きているから、知りたいという欲求が生まれる。もし「調べればいい」に生きたら、知っておくべきことの必要もなくなる。ソリッドに説明ができるそれは、じゃんけんもサイコロも存在しない偶然のない世界で、メディアや道具を用いるだけになる。人々を信じさせる側が発信者になる。

人間は、そして僕自身も必ず何かを誤解している。それが何であるかは、誤解が解けるまでわからない。自分が正しいと思っていることがその誤解の原因だ。

同時に、人間は自分自身を評価的に理解することもできない。図々しさが当たり前であれば図々しさが何かわからない。自己評価というものは、自作自演の演技がどれだけ上手くできるかに依存している部分もある。行き過ぎればそれは、狂気じみた行為にさえ見える。

さらに、迫真の演技を見せられれば、演技に隠れた部分は理解できない。であればなおさら、情のない人間というものが存在するのかもしれない。その可能性を考えると、人間を第一印象や見た目で判断できなくなる。

人造的な「コト」などは、何かのはずみに簡単に冷めてしまうものだ。この虚構は、自分の柔軟性のなさ、外部が変わるだけと思っていた結果だと思う。

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