雑記 625
小説、「君が手にするはずだった黄金について」小川哲(新潮社)を読んだ。とてもよかった。なので他にも小川哲さんの小説を読もうと思った。それとどことなくシーラッハを思い出して、それもまた読もうと思った。シーラッハは「犯罪」(東京創元社)しか読んでいない。
それと小川哲さんとシーラッハの線上に、アゴタ・クリストフがいるような気がした。アゴタ・クリストフの5つの小説は読んだし、「悪童」は途中まで写経をしていた。小説はまだ書けない。途中でやめる人には書けないのかもしれない。
どのような本に興味がわくのか。大きくみても変わっていくし、年に何度も変化する。今は小説が大きくなっている。そして上記の小説と、有吉佐和子が読みたくなっている。
読みたい小説も変わっていくし、小説以外の本に興味移りもするし、読書時間が少なくなる時もくる。
少し前まで倫理、特に地域型の共同体主義をよく読んでいた。もうわかってしまったわけではないけれど、いったんは、煮詰まった感じがする。だから他に行ったほうが軽く明るく楽しめる。それに、倫理学にはまる前にはわからなかったこともわかってきたのでよかった。自分がどのような世界観を持っているのか、どんな挙動をしがちなのか、ひとまずわかった。
そうなると、だったらあれにこだわるのは不毛だとかわかってくる。自分のできなさとか、自分が選ばなくていいものとか、そういうものがわかってくる。そういうことがわかってくるのは悲しいものだなと思うが、それで割り切れるのだから、なんでもとにかくそれで進んだ方がいい。
現代人は「言葉すぎる」し、現実は悪い:現悪説になっている。(だから気がおかしくなるほどポジティブがあるのだ) というのは今のパレスチナとイスラエルの問題を学ぼうとして、僕なりに見えてきたことだ。
日本や温帯に住む人には、世界は砂漠ではないし、そのOSはあまりに不自然だ。いうならば森の世界にいるのだから。または海の世界。砂漠だけは当てはまらない。
余計なことを書く予感がしてきたのでもうここでやめる。
小説や、そのほかの人文系では、10年代までと20年代は違うと説明しだした。だいぶそれが太くなってきているのを感じる。
無から生み出すというのは砂漠的かもしれない。気分を作り上げることだ。だから大震災や巨大事故、天災やパンデミックがあると、少なくとも部分的には、その作り上げられた人造の欲望が破壊される。
それで困るわけではない。むしろ無から生み出す機会が作られたのだ。カジュアルにいえば、ニュー「アメとムチ」がはじまる。新型の空気をクラウド接続し、フレッシュな気持ちで人々が制御される。そんなもん乗れねえよと気づいてしまったらアウトサイダーだ。
こういった、あったかもしれない現実を行き来するのが、「君が手にするはずだった黄金について」だ。と書いて、こじつけられたなと安堵している。