世間話:自然
「自然」てなんだ?と。よくよく考えてしまうと、言葉では区切れないなとか、どこからどこまでと指をさせるものではないぞとかになって、混乱してしまう。月面は自然??心臓は自然?じゃあ脳も自然?なんで考えは不自然なの?
自然破壊はどういう行動かイメージできるけど、人それぞれ違うかもしれない。この辺りは、何かの度を越えた場合に、破壊だというのが基準値だと思う。じゃあ度を越えなければ何かしていいのか?
自然の保護で考えるともっとややこしくなる。なんならその広大なエリアに手を出さないことだけでなく頭の中からも消してやっと、保護できるのかもしれないと思う。なぜ経済や政治、論理全体は、空白を許さないのだろう?現代における原自然って地球上じゃないのでは?とこんがらがる。
人間は、自身の力を遥かに越えた道具を手に入れたからだ、という問題視もできる。そうなると、道徳観を現代に合わせて、変更ではなく「道徳」を捨て新規の「倫理」に入れ替えなければならないかもしれない。正しいことをするのではなく、条件をかぶせてやってねのような。「やるな」から「つけろ」というか。旧式はとにかくやるなと言い張るばかりなので、実情着地しない。
去年1年間は、環境美学・日常美学に重心を置いて学んだ。環境意識の変化も知ることになる。現在考えられる基準のようなものが生まれたのが70年代中後半。とはいえ、レイチェル・カーソン「沈黙の春」は62年、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「ウォールデン、森の生活」は100年以上遡り1854年の出版だ。あと関係ないのだけど、「盛りの生活」て変換には力が抜ける、、、すごいなこの不意打ち感。途端にキャラ作りになる。ノスタルジアから今どきに、プレーンから欲望に振れ幅がとんでもない。まあいいや。。
つまり現在では、歴史に残るネイチャーライティングの世界も生きてはいるものの、今では次世代(現在性)の感覚にこなれてきている。原自然だけが現自然ではないと。近代までの西洋の自然観だけで自然は考えられないし、強く訴えるのは西洋的な自然観だろうけども、かつて自然な暮らしをしていたと言える日本人からしたら、あまりに「線を引きすぎる」ものだと感じることだろう。
70年代。70年代を用意したのが戦後の50、60年代だというのを混ぜるとややこしくなるのでパスして。70年代に人類は大きく変わった。この辺りで「ポストモダン期」になったと、つまりモダンは終わったという考えに説得力がある。
それ以前からも、「オリジナル」と「レプリカ」はあったが、ヘタするとこの辺りから、「オリジナル」の時代が "終わり" 、「レプリカ」が全てになろうとしてきたと、(大袈裟にいうと)言える。
まあ、今の僕らが人から聞いたり信じているものって、「レプリカ」なのよ。どういうことか、雰囲気でどうぞ。
現実から物語は作られる。ただ人間は物語から現実を想像することもできるので、物語から現実を作ることもできる。そんな物語を作る。人間の機能としてそうだし、それを意識していることはなかなか高度なこと、または無理なことなのだ。
「メディア」が発達してしまった時代に、物語と現実の位置関係がめちゃくちゃになってしまった。物語と現実の区別がつかないが、鶏と卵の関係で、もはやどちらが先かなんて問うても仕方がない。ただ、現実が物語を作る、ということが基準点、または原点なのだろうなと思う。
情報もクリエイティブもどれも、2次情報、2次創作で、自己啓発の信者に限っては真剣な顔して2次を強要してくる。いや僕は道具として活用すればいいと考えていて、利用者だが信者ではない。これが正しいとかそういう説得や見せ方(盛りデザイン)が入ることがどうしようもない(ムキになるなよ)と考えている。
こうしたねじれに対して正方向でいようとするのだとしたら、芸術家や小説家などになれるだろう(社会的、商業的に成功するかは知らんけど)。
メディアの発達で今はさらに「インターネット」なわけだ。検索してしまう。調べたいものを調べてしまう。
何か問題があったらいい方法がないか探す。当然そうだろう。その時にその解決法が語る問題源くらいは知るだろう。じゃないと解決法が語れない。
ただ問題解決の失敗例などまで検索するだろうか?実情あまりしないはず。つまり歴史的な時間の扱いができなくなって、人々(ごめん、大衆の)の頭の中から時間(歴史)の流れが存在しなくなった。旧世界の理想論が、その後に大失敗をしていてもそれには触れることなく、こうしたらいいんです!って話が目の前にやってくる。そのままではまた大失敗するだろう。1929年にすでに、オルテガさんが「大衆の反逆」で説明していた。でも、それを知らないまま、これでいいんだと思いを固める。「ハーメルン」で没落する人ほど正しさを死ぬほど信じている人はいないでしょう。
この話に着地点が見えてこないのでどうしようかなと考えはじめた。
現実は思う以上にランダムなのだ。信じるに値しないといったら気わるくするだろうけど。今を生きることは思う以上に即興的でランダムでいい加減で本能的でどうでもいいという態度でもある。固い頭ではダメだということ。
真面目さというのならばむしろ、ランダムなこの世に長く生きることを考えて、防御的に備えることが真面目なこと。僕は金金しいことは嫌いだが、お金をあなどることは不自然野郎(2次世界人)だとも思う。
イマココとかも賛成派なのだけど、あれは真面目(神経質)な話ではない。ムキになったらおかしい。己の能力を手に入れるとかそういった、森の反対の盛りに近い本音が透けて見えちゃう。自分で指定する気が満々だ。もうちょっと、サイコロふって、「2ね。はいはい。」みたいな気持ち「も」必要だ。6じゃないと悔しがるのは、わからないとは言わないが、偶然とかランダムに対してムカつくのって、全能の神じゃないんだから。というか未熟。
そうなってくると、さまざまな力、暴力や威力に感じることだけでなく、説得や論理、思いを伝えるコミニュケーションとか、そういった方向性を自分が操作できる感覚が過剰なのが、『『現実破壊』』なのだろうと。
美とはなんだろう?美は単独で存在するのか?
そうではなく、ある円環状の360度針が動く判断の中の、一つの基準値が美なだけだ。0時12時が正くて、6時は悪だなんておかしな話だ。美醜の二項で思考することが現実を見えなくしている。価値なんかないところから始まって、とはいえ価値の基準値を設定しないとどうにもならないから設定して。
現実が物語を作るのか、物語が現実を作るのか。どちらもあるのだけど、これが現実だなんて言い切ったら現実を見失うよと。それは多分、二次的な現実だからだ。自分の意図したものが正確に伝わるなんて考えは、現実にはないよ。狙えないことをおよそで狙うようないい加減さを失った態度は不自然な自然観なのだ。
禅の哲学をさらっと通過して言えることは、ディスクール(言説)だけでは世界観は狂うということ。陰陽の図を見ながら、白は黒であり黒は白であると説明されたら、そのうちに意味はわかるだろう。だけど言葉だけでとらえると矛盾にしかならない。西洋でも20世紀初頭にゲシュタルト心理学が生まれた。自然破壊は偶然性を取り入れない理想の加速が起こしているのなら、偶然性や縁起の考え方が現状を変える可能性がある。
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