つながることで失われたもの

職場に言うことを聞かない人がいるとか、急に無理なことを言い出す上司がいるとか、そんな話をよく聞きます。僕自身はそういう環境にはもういないのですが、話を耳にするたび、過去の経験から想像はつきます。

ビジネス書や実用書には解決策が書かれているものの、それを実際に試してもうまくいかないと感じることが多いのではないでしょうか。なぜなら、問題の根源や責任の所在が変わらなければ、努力が無駄に終わると感じることが多いからだと思います。


メディアコミュニケーションが発達した現代では、コミュニケーションの価値や深みが薄れ、それに伴い知の価値も低下しているのではないかと考えます。知識に対して傲慢になっている風潮も感じられます。

たとえば、知らないことを聞かされたときに、驚きや面白さを感じるのではなく、悔しがったり戸惑ったりする場面が増えているように思います。それは、知識と自分との隙間を知ったのではなく、自分と相手との違いを知り、その違いによって感情が動いているからかもしれません。

知らないことを知って「あなたは面白い」と言ったとしても、それが知識への純粋な興味や欲求を刺激しているわけではなく、単に「よく知っているあなた」に対する興味にとどまる場合が多いように感じます。これ自体は否定されるべきことではありませんが、「知」と「個人」という本筋の話からは逸れていってしまいます。その知識に感動し、深掘りを始めた例が浮かばないのも、こうした風潮の一端なのではないでしょうか。

近年、知識や文化の専門性に対する価値が低下していると感じます。たとえば、ネット上では「この人も知っているだろうけど、世界的に認められた人の情報も自分は得られる」という認識が広まっています。この感覚が、「誰もが知の上位者ではなく、ネットを介してみんな対等である」という幻想を助長しているように思います。

しかし実際には、すごい学者がネット上で発信しているかは不確かで、検索結果にたどり着くには一定の知識が必要です。特に専門的な情報の場合、論文などにアクセスする能力が求められます。それでも、SEO(検索エンジン最適化)の仕組みに従うだけで情報が手に入るような感覚が、知識への安易な態度を助長していると感じます。AIの検索精度向上への期待も、「操作ができればいい」とする風潮を加速させているのではないでしょうか。

学問的な知識が必要になるのは、ある程度状況が見えてきてからです。一方、ネットはそのタイムラグを埋める速さが利点で、学問というよりジャーナリズム的な役割を果たしています。本来であれば、結論が出ていない段階で「間違っているかもしれないが」と前置きしつつ、弱い立場で早急に広める役割が期待されるべきです。しかし、状況がねじれていた場合、その影響が後々問題になることもあります。


ネットと知のコミュニケーションを取るためには、知識との互換性や一定の知の水準が求められると思います。しかし、それを可能にする「知のコンシェルジュサービス」は万能でなければ成り立たないでしょう。現時点では、そうした万能な仕組みはまだ存在していません。

知識に対して傲慢であるとは、世界や自分自身を「謎」として捉えなくなった状態だと思います。自分を謎だと思わないなら、これ以上知る必要がないと感じてしまうのでしょう。けれど、自分の可能性は今の自分の外側にあり、それに到達するためには努力や探求心が必要です。知識への敬意があるほど、「理屈通りにはいかないこと」を受け入れられるのではないでしょうか。それを受け入れず、「理屈通りが正しい!」と怒る傾向が強まることも、知への傲慢さの一例だと思います。

世界がつながり、どんどん明確化していくほど、人類は自分の知識を広げる行動を減らし、知に対して傲慢になっていく――これは非常に皮肉な現象です。

異なる価値観や知識に触れて、その違いを「敵」と感じることもあります。世界がつながることで、そうした敵対意識の対象が全世界に広がってしまったのかもしれません。けれど、違いは「敵意」ではなく、ただ「よく知らない」というだけのことがほとんどです。「まだ知らない」と思えなくなることは、何か決定的なものを失わせるように思います。

教育の分野でも、基礎学問よりもジャーナル的なものを重視する傾向が見られます。「世界」「現代性」「情報への対応」といったテーマに偏っているように感じます。

しかし、基礎学問を切り離せば、どんな組織でも独自化が進み、結果的に互換性を失い、個々のやり取りが意味不明に感じられる場面が増えてしまうでしょう。

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