育たなかった自分/時をまとうボディ
ビジネスの限界と「自分」の回復
ビジネスは万能ではない。人々の燃え尽きは、ビジネスの外側で解決される。
なぜ、私たちは自己実現を目指してしまうのだろうか。自己実現前の「自分」は、まだ「自分」ではないのだろうか。
「時」をまとうもの
物質としての「ボディ」を持つものは、「時」をまとう。一方で、情報として存在するものには「時流」はあっても、「時」はない。
例えば、終戦直後の本は紙の質が違うという。数年後に紙質が回復しても、書き残す優先順位の高いものから記録されていったはずだ。そうした本は「ボディ」がすでに何かを言っていて、「時」をまとっている。
デジタル化されたものは、物理的な劣化をしない。優先順位も曖昧になり、写真ひとつ撮ることですら無造作だ。しかし、内容は時代とともに古くなり、かろうじて「あの時」という「時流」をまとうだけだ。
明治期の建物や戦後復興期の建物は「時」をまとっている。水没を経験した沈下橋もまた然りだ。
ボディがあるものには、「時」が宿る。それは、存在の意味において大きな差を生む。
「私」と「自分」のあいだ
人間もまた、ボディを持つ存在だ。しかし現代では、ボディを伴わない「コト」ばかりが溢れている。
「時」をまとう存在を「自分」とすれば、「時流」をまとう存在は「私」だ。「個人」や「個人化」だけでは、この差を理解することはできない。
「自分」と「私」の差があまりに大きいと、人は燃え尽きる。仕事を退職した後、生きがいを見失うのは、「私」の役割に適応しても、「自分」が育っていなかったからではないか。
道徳という演技指導
現代の道徳は、正義の物語を演じるための指導法だ。仕事という「美徳」もその一つである。
ソローは『ウォールデン』で、評価や役割を装備しなければ裸になった気がして正気でいられない生き方を愚かだと言ったのではないだろうか。
静かだから落ち着ける。静かだと落ち着けないのは、自分の不在を意味する。
人間はブラックホールのような存在ではない。なにもなくてもそもそもあるのが自分だ。「私」がなくても、「自分」は欠けることなく、そこにある。
「時流」に囚われる社会
一昔前、資本主義と共産主義が互いに正しさを競った時代があった。どれだけ国民が働くのかも大きな鍵だった。資本主義はその「働く」ためのやり方に自信を持ち、今や毒化している。
人間を「時流」に組み込めば、ボディは忘れ去られる。壊れるまで働き、辞めることを恐れる。既存の資本主義が「自己実現」という言葉を使えば、仕事を強制する一手段になる。
ボディを取り戻す
「時」をまとうもの――それは、自然や、数十年、数百年を超えて存在する本や絵画だ。そうしたものに触れることで、「自分」を持つ意味を知ることができる。
デジタルの全環境化により「時」は失われ、「私」に支配されることで「自分」も見失われる。だが、自己実現などしなくても、「自分」はそもそも失われてはいない。
思考を取り戻せ
過度に他人の意見が耳に入る状況では、「私」を剥いた時に現れる「自分」は育たない。表現の自由も、アナログとデジタルでは同じではない。デジタルには倫理的な規制が必要だが、現状は無法状態である。意味はボディから切り離され、暴走している。
紙の本を侮ってはいけない。デジタルテキストにおいても、ボディが持つべき理解力は必要だ。視覚は非言語すら読み取り、他者の意図から離れて、理解の外側にまで至る可能性を秘めている。
サジェストされた知識に知の積極性はない。「考えるな、ググれ」になっている。
ググるな、考えろ。奪われたボディを取り戻すまで。
一時的なデジタルデトックスではなく、セールスやPRの騒音から耳を塞ぐこと。そうして、ボディを取り戻し、「自分」のある自分になる。
考え続けることで、ノイズに埋もれた「自分」を取り戻すのだ。