互換性
不安と悩みは同じものではなく、不満ともまた異なるものです。多くの悩みは人間関係、つまり関係性の問題から生じているように思います。SNSが普及した現代では、人間関係は簡単に切れてしまいます。手軽に安心感を得られる一方で、どこか脅迫的な側面もあるのではないでしょうか。
知人の動画を見て考えたことがあります。その主張は私の意見とは異なっていました。しかし、敵意のない性格だと知っている人なので、意見が違っても、ひとまずこちらは黙っておけばいいと思えました。それでも、何か言わずにはいられない人もいるようですが。
相手に特別な好感がなくても、嫌な相手でなければ、お互い様の範囲でできることはやれると思います。話し合いをするためには、お互いに敵意がないと確信できることが重要なのかもしれません。ただし、特定の条件下での関係の場合、規定に閉じたものになってしまいます。
人間関係とは、それぞれが持つ社会性が繋がることで成立しているのではないでしょうか。そして、肯定的な態度は、相手を信頼しているというメッセージになります。
「徳」とは、外側にある社会正義ではなく、内側の品性に関わる問題です。理由がなければ他者のために何もしないという姿勢は、徳に欠けるものです。品性は受け取ることにも求められます。宣伝やPRによって、情ではなく都合に基づいて行動する態度は、恩のやり取りを失わせ、影響力で人の心を集める企みに依存していきます。恩知らずな行為は法で罰せられることがなくても、人間社会の本能的な基盤においては許されません。程度の問題になりますが、恩を忘れず、互いに助け合う社会性を保つことが基準になれば、関係性はより明るくなっていくでしょう。
自由にやるといっても、例えば素材が持つ限界など、どうにもならないことがあります。しかしその限界を理解すれば、かえって制約の範囲が明確になり、その中で自分なりのやり方を選べるようになります。論理的な解釈にはそこまで具体的な限界がないのかもしれませんが、感性的なとらえは自分の感性力や物理的な制限に阻まれます。このような限度の中で自由に取り組むことは、マニュアル通りに進めることとは異なり、オリジナルな方法を試す余地を生み出します。その結果、自己有効感を得ることができるでしょう。一方で、何もしないために合理的な説明を持ち出す、説明合理癖もよく見かけます。コミュニケーションから逃げるために、コミュニケーション論を盾にする場合もあるようです。これはコミュニケーションの効果を一面的に制限してしまう行為だと思います。
自由とは、自分の中にある矛盾に気づき、それに向き合っていく力ではないでしょうか。そして平等とは、影響を受けやすい弱さを補う教育にあるのだと思います。一人で自然にやり出すことが、その人固有の才能であり、自由の中に宿るものです。趣味がない人は、やりたいことを見つけていないのかもしれません。簡単なことは楽しいですが、難しいことは面白いのです。難しいことに面白さを感じられるようになれば、それは自分の才能の一つを発見した証だと思います。