本当の日常じゃない!/感性を失った社会
僕は、今の社会が「感性で捉えられるもの」を無視、あるいは軽視していることに問題を感じています。だからこそ、環境や日常を感性で捉えることが広がるように、環境美学や日常美学を学び、美学的な観点を持ちながら行動しています。
とはいえ、これが(狭い意味での)政治や社会、経済とは直接的な関係がないように思えます。政治や経済、社会といった枠組みで語るものは、「~~してほしい」という願いが政治につながり、「~~をどうぞ」が経済を生み出し、「人々の活性」が社会の問題になる。そうした枠に収まる話ではないのです。
先に述べた感性の問題は、むしろ理性の問題に近いと思います。そして、それは政治でも経済でも社会の問題でもありません。
よく「理性的であれ」と言われますが、理性にもいくつもの形があるはずです。本能は仕組みとして人々に共通していることが多いと思われるのに対し、理性はさまざまな見方や状態に基づきます。そのため、人それぞれの理性のあり方が、結果として異なる「個体的な感性」や世界観を形づくるのではないでしょうか。
僕の場合、感性の問題は理性の問題でもありました。僕の理性は、牧歌的な世界観を軸としています。それは、日本に多いと言われる「宗教的ではない仏教徒的な世界観」とも似ています。この仏教は、宗教というより思想や哲学に近いものです。第一義的な位置づけに何かを仮設定せず、目の前の空間を「世界」として捉え、諸行無常を受け入れる。過去や未来ではなく、目の前の自然現実と接しているとするものです。
一方で、外向的な思想であるグローバリズムが行き過ぎた結果、困難を生じている現状には違和感を覚えます。自然に参与するような世界観の理性が増えることが必要だと感じています。これが僕にとっての理性の問題であり、感性の問題でもあるのです。
現在の政治的な雰囲気について考えると、「私のしたいこと」を問う一方で、「私の困りごと」を聞き取る姿勢が薄れているように思います。かつての政治のイメージは、「困りごとを聞き、それを解決しようとする」ものでした。しかし今は、「困りごとがあるなら自己責任です。自助策を与えます」といった論調や、「あなたは何をしたいですか?」という問いが目立ちます。こうして「苦」の声を「望み」にすり替え、話を逸らしているように感じます。
自己啓発による問題解決は、それ自体が便利な道具であり、必要な場合もあるでしょう。しかし、それを信念にすることには違和感を覚えます。現在、宗教や伝統的な芸能が一部で排斥されている現象は、理やグローバリズムが行き過ぎた結果に見えます。「困りごとに繋がろうとする」ことが政治の本質であり、そこに焦点を当てるはずだったと思うのです。
困っている人は自己啓発が足りなかったのでしょうか?例えば、時代劇の政治的解決策が「自己啓発本をどうぞ」だったらどうでしょう。それは情や政治ではなく、経済や理論の話に過ぎません。実用的な道具としては役立ちますが、それが世界そのものにはなり得ないのです。もつれた謎が解けてきました。
現代の問題を例えるなら、地方に「理論」を押し付けるのではなく、むしろ都市に「情」を取り戻すことが求められているのだと思います。行き過ぎた「理」によって薄れてしまった「情」を、社会全体で取り戻す。その比重を調整する必要があります。
理の世界では「利他」や「利己」が議題に上がりますが、情の世界ではそれ自体が問題になりません。利他が話題になるのは、理の世界に「ちょっと待て」と声を上げたい人々の感情から来ているのではないでしょうか。もし社会の問題、つまり「人々の活性」を考えるのなら、情の視点からつながりやケアを見直す必要があると思います。