雑記9/8 エッセイ・結果的に得る結果

世間では、出会いのあるなしの問題だとされる。実際にある程度の人数と会っているかどうか。確かにそれもそうだなと思う。それでマッチングアプリやイベントなどに参加しているかどうかの話になる。それで。うまくいくまで同じことを繰り返すことになる。だけどある程度までで、人間は疑い始める。

もちろんうまくいく人もいると思うし、周囲ではうまくいった人はいる。その人たちには、やりたいことをしながら拠点は共有しているかたちが割と多いように感じる。こういった性格には合うのかもしれない。条件を出すのが得意だったり、演繹的なものの考え方をする人だ。ただ僕の世界にはうまくいかない話の方が圧倒しているし、出会う活動をしていたら別のところから結果がきたような話の方が多い気がする。要は、帰納的にとらえる人には、出会いのあるなしの問題ではないと考えられる。社交性と社会性の問題だ。出会っていればいいという仕方で結果が出ないのなら、こちらからの見方に切り替える方が順目だと思う。


それにマッチングアプリで出会いの数をかせげばよいのであれば、つぶやくだけのSNSでコメントして交流していても、ひとまず同じようなものだと思う。そこでもアプリを介して出会っているので、重なるところもある。マッチングアプリは条件などが明記されているぶん、出会い後を見せ、整って準備している集まりという違いは明らかにある。つまり、だからマッチングアプリは演繹的なものの考え方をする人には合っている形式だと。そう考えていると案外、答えが提示されていればいいと思う人が少ないのに気づく。

確かにつぶやくだけのSNSだと、出会いたくない人やその出会いではない人もいる。仕事で何か起きるかもと考える人の方が、仕事マンではある。それと社会が、「市民は答えを欲しがり、それに導かれたがっている」や「出会いの数が問題だ」という考えに統一されてしまって、同じ構成を逆から見ることすらしなくなっている。8割の結果を出す2割のものにフォーカスしているだけだと思う。それだと8割の人が停滞してしまう。人間には「とき」がある。時間を奪うことに激怒するくせに「とき」を奪うことに躊躇しない。人間にパレート法則を当てはめるのは倫理的に重大な問題がある。そういうことはともかく。

(全然関係がないけど、横書きはつらつら書くのには向かないと感じる。締まらない文をつらつら書いている自分が嫌になってくる)


社交性と社会性の問題だ。これについて細かく書くことはできない。ブログに収まるとは思えない。ただ社交性はシンプルに、例えば昼前に山間の村を訪れたとき、地元の人がおやっという感じでこちらを見た場合。笑顔で会釈でもしていたら大抵空気を壊すことはない。社交性などはひとまずこんな程度の話だ。SNSではひとまず黙っていいねして、いいねされたら「世間話」をしてみてもいいのかもしれない。僕もそうだし割と、友達ができたらいいなと思う人は少なくないと思う。「フォローしていきなりグイグイいくやつがあるかよ」みたいなことが社交性にあたると思う。

社会性は、社会や人間関係に関する本が無数にあるように、到底語れない。だけど中身はなしで形をいえばこうなる。社会からされたことを社会に返していくこと。それが社会をよくする質をもつこと。そういった挙動をもつことが社会性だと思う。ちなみに社交性が「はじめる力、ゼロから」、社会性が「連綿と続ける力、自己同一性的」だ。社会性のために、共有の基礎知である基礎学問系を身につけることを提唱している(大袈裟だ)。だけど基礎学問は限界を超えて得られるわけではない。自分の基礎学問の限界を(思い)知れば働きだすのが社会性だと考えている。世間からずれたところを個性というのではなく、持ち合わせの中で能力の高いものを発揮できることが人生の個性だ。役目を果たさせられているのは、社会性があるからではなく強いものに制御されているからだ。自分の社会性が自発で社会への還元をしているわけではない。アイデンティティの問題とも関わってくるし、当然心理問題とも関係する。

要は自己評価を適正にすること。盛って考えたり、自分の力の限界を認めようとしなかったり、わざわざ低く見積もることだけでなく、本体に従う形で自分には謙虚に付き合うことだ。だからこの社会の、「プロフィール」「自己アピール」そういったものを光るように見せろ「見た目が9割」という指示が一方に偏りすぎているだけだ。僕の周りにはそうではないタイプの人間が多いと思う。そういう社会を望んでノリノリでいられる人は少ないのだが。

市民は枠通りにやっていればいいんだという考え方に圧倒されている。そうではない、いい社会がいい市民を生み出し、そこでは過度に市民を制限しない方がいいという式に持っていこうとしないのが21世紀のグローバリズム(に統一だ)というもの。枠決め統一すれば全体性になり、各人がソウルの核を持てば無限になるようなことをホロコーストサバイバーのレヴィナスは書いていた。粒のあるおにぎりは、枠内方式にしたがい粒をなくし統一制御しなくても、粒が増えた分だけ大きくなる。枠が絶対的に決める式と、社会性動物で有機的拡大もある式がある。どちらの方式にも対応してしまう中間の人を引き入れ多数派のように見せることに成功し、ではそちらだと説き伏せ指示を極端に振ることで成功率が高まるやり方を通しても、中間の人が皆そこまでやれるわけではないのだろう。これがマジョリティだと「見えるように」成功しているのだ。虚構分を差し引いた方がいい。オズの魔法使いだから。僕たちは、絶対的正義のグローバル教と縦型の産業界の慣習とのはざまで、どっちもどっちだと迷いつつも、仕方がなくどちらかを支持しているのだ。それで萎えないわけがない。

市民はコントロールしきれない。それならコントロールしきれないと思っている式を捨てたらまずい。尊敬はしていないがある意味で政治はストレートだ。市民がどこまで馬鹿なことをするのかを測らないと自分らもクラッシュするからだ。学問や信仰・道徳は逆で、どこまで人々は利口に高度になれるのかに軸を置いてしまう。

いや、アプリはアプリでよいのだけれど、アプリ一択に意見されていくことが愚かな文明だと。プランB、Cくらいあって当たり前だと思えない頭になっているのが現状の失敗原因だと思う。21世紀の災いといってもいい。

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