普段が私たちを変える

なぜ人は、これほどまでに他人の言うことをそのまま受け入れてしまうのだろうか。人間は言葉だけでなく、視覚的な情報を通じても学習できる生物である。現代のメディアが発信する情報には、言葉と共に膨大なイメージが伴い、私たちの無意識に影響を与えている。

普段は意識されないが、現代社会では心理操作が横行している。人々は進んで、自己の判断を外部に預けてしまっている。アイデンティティを子やペット、推しやブランドなどに委ね、考えや判断を新旧メディアの提示に委ねる。このようにして自己の核を喪失すると、自分自身の問題を解決することは難しくなる。

社会が合理化するほど、自由に行動することが難しくなる。死なない、捕まらないという生き方の枠組みが設定され、それに従う生き方が当たり前になる。決まり事としての仕事をしているなら、活躍の面白さではない。日々にドキドキもない。退屈を感じて自由を求めても、度を越えれば捕まるというブレーキが常にかかる。

合理的すぎる社会では退屈が蔓延し、それを打破しようとする行動が制限される。周囲が平凡化し、情報過多の中で心の自滅が進む。情報と付き合い過ぎてしまった結果が、心の自滅に繋がっている。他人の生み出した動機に基づいて行動するのではなく、自身の感受性を基盤にして行動できなければならない。基礎学問を通じ、自身の体験から導き出した結論が、自らの動機となるはずだ。


現代社会では、「空気を読む」文化がしばしば問題視される。受け手の依存性や協調性が主な原因ならば、自律的で社交的な態度を持つことで改善できるかもしれない。

空気問題の裏を返せば、普段から多様な意見が交わされなければ、利害のぶつかる場面に適切な対応ができないということだ。非常時には特に大きな差になると思う。柔軟な対応のためには、冷静に考えられる通常時に、異なる意見が交換されていなければならない。

また、「見捨てることができない関係」が重要だ。それは親しい間柄だけでなく、赤の他人であっても責任感が働く場面があるということだ。人間は他者の内面まで捉えきれない。察し合うことではなく、配慮し合うことが増える社会の方が望ましい。このような社会なら、個人の責任の分業ではなく、協力的な手分けの姿勢が日常にあるのではと思う。逆にいえば、つながりのないところでは何も始められないということだ。


そして、情報の受け入れ方に品がないといけない。感情を揺さぶりにくるものを選ばされていたり、都合のよいものや好き嫌いだけで選択する態度、指示マニュアルに従うだけの思考は、自己の世界の統合を崩し、他者との関係に歪みをもたらす。

現在よく見かけるコミニュケーション論は、逆からみればメディア論になるようだ。そこでの問題を考えると、視点を増やし、情報の背後にある意図を理解することで、やりたいことをやるというわがままから、やるべきことを自分の答えでやるような自律的な態度へと変えていける。

日本人は一人で勝手にやったらこの上なくオリジナルのことをするくせに、それを押さえ込み、組織への従属を教えあう。そのため、日常も国民性も伸び悩み、精神の崩壊に苦しむ人が多い社会になるのも理解できる。

自分の内面で「分業」のようにしてしまうと、有機的な発想は生まれにくい。有機的な発想は、内面での「手分け」によるものだ。過度なコミットは避け、一つの知識を他が溶かし込んでいけるように、知識の幅を広げ、内面的な要素が混ざり合う現象を待てばいい。


他人から情報を受け取ったときに、自らの体験と重ね合わせることで想像しやすくなる。しかし、体験だけでは想像力は広がらない。重要なのは、体験による結論だけでなく、「別の結果になっていたかもしれない」と考えてみることだ。こうした思考は、想像力の幅を広げる。

AIに対しての人間性は、想像することだろう。人間らしさは論理的な反応をすることではない。人間は、自分自身を作り続ける存在だ。閉じた存在でありながら、外部からさまざまなものを取り入れ、変化し続ける。意味や価値がわからないまま試行錯誤する中で、やがて自然な選別が起こり、自分に合ったものが残る。既存の選択範囲を超えて知識や体験を散らかし、それらが内面で統合され、新たなシステムを形成していく。自己の核を元に肉付けされ、内部を変化させていくようなものだ。

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