関わりあうセッション

日常の場面での話し合いや、動き、触れ合いを通じて関係性を取り戻すことが、人々の理解の回復につながるのではないでしょうか。

分業と手分けには本質的な違いがあります。分業では役割が固定され、進捗や成果が個別に評価されがちです。そのため、自分の仕事が終わると同僚を手伝うことに心理的な抵抗を感じることもあるでしょう。また、能力の差によって生まれる優劣の意識が、見えない分断を生むこともあります。一方、手分けは状況に応じた柔軟な協力を基盤とし、全体で物事を成し遂げることを重視します。手柄は等分でも、積極的に手伝ったり、人一倍活躍すれば感謝や賞賛が得られます。分業は組織といえるのに対し、手分けは人間の社会性が生む関わり合いです。かつてはこの「手分け」が、文字通り共同体を支える心得だったように思います。

動物、そして人間の社会性とは、他者との行為の伝達です。例えば、イルカが人間を助けることがあるのは、過去に「他者」に助けられた経験が「バトン」として蓄積され、それが次へと伝わるからだと考えられます。社会性を持つ人間が作る社会も、他者からされた行為を次へ繋げる循環によって成り立っています。社会があるから社会性が生まれるのではなく、社会性が人間に備わっているから社会が存在するのです。この循環を健全なものにするために必要なのが、感受性やケア、情、そして粋と呼ばれる行動であり、それらが社会を支える「徳」となるのでしょう。


物事を理由だけで判断するべきではありません。私たちは頭で考えるより前に、自然と反応していることもあります。体に任せ、感性で選び、考えずに馴染むことは、心理的には自然な営みだといえます。感覚化されている理解があるなら、言葉での共有にこだわらなくてもよいのではないでしょうか。

スキンシップは言語不要の肌によるコミュニケーションで、生物的な関係にとって替えのきかないものです。手分けによる共同体と同じく、相手との関係性を築くものです。エクスタシーとは、自分を失うことでもあります。手分けの共同体は、能動と受動が交わる状態であり、参加者は自我を一時的に保留しながら満足を感じるのです。

手作りで物を作るとき、僕はただの動力のような存在になります。素材の状態をうかがいながら、手が勝手に作業を進める感覚があります。素材がもつ限界を超えるものは作れないし、道具がやれること以上の作業もできません。その限界を伺いながら、僕は物を作っています。そのような制約の中で物を作ることは、自我をひとまず保留し、物と調和しながら動くことでもあります。このように、自我を少し脇に置くことで、私たちはさまざまな物事と互換し、結びつくことができるのです。

そのため、「共感のための意識的な行動」はいずれ終わらなければなりません。静かな共感でなければ、ぎこちなさが生まれてしまいます。言葉で付け足す必要がない状態が目的地です。そのようにして言葉を手放したとき、集合体としての納得が生まれます。逆に、言葉によって何も始まらないこともあります。考えなければそれをしていたかもしれないと、振り返ることは多々あります。


これは自分の体験ですが、無意識的な共感や未知への思い切りは、内在化している過去の問題を抱えている人には難しいのかもしれません。

このように、体が自然に行うことは、人間の営みにとって一次的な挙動であり、自然なものだと思います。答えや言葉がなくても感覚的にわかっている状態を活用することも、忘れてはいけません。答えの押し付けがうるさい環境では気が散ってしまうでしょう。そして誰かと話をするときに、答えを準備していてはセッションの良さを引き出せません。

セッションとしての話し合いとは、謎を抱えたまま共に考え、発見していくプロセスです。もし話し相手がすでに自分の中で答えを持っている場合、それは双方向性がなく「知り合う」形ではありません。また、聞き手の立場からすると、相手の答えに合わせるうちに、自分が「私たち」の一部ではないことに気づくかもしれません。そうなると、関係は仮面を被ったものとなり、本当のつながりは失われます。本当の関係とは、相手の未知の部分に気づき、そこから新たな話題を引き出していくことではないでしょうか。

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