いなかを守りたい

僕は、牧歌的な生活を守りたいという気持ちを持っている。およそ、地方、田舎(限定ではないが)をなんとかしたいわけで、地方の問題と話はかぶってくる。

ただ、牧歌的な暮らしを守りたいので、地方問題意識とどこかずれてくる。「地方を‼︎」「自然環境との親和を‼︎」と燃えることとは、意見は同じであっても態度的に違ってくる。それは牧歌的な暮らしじゃない。

まぁ、騒がしいといえば確かにそうなので、都会的な騒動のようにも思えてしまう。地方に行ってそういうことで騒々しいのなら、戸惑ってしまう。


話は飛んでしまうが、二元論的な判断についてよくよく考えてほしいなと思うわけだ。二元論の否定をしようということではなく、二元論のみでは限度があって、今はこの辺りで混乱していると思うが!という話だ。


また話は飛ぶ。人は忘れられないから生きづらいのだ。もうこの何年も、言語化、言語化といわれてきた。言語化すると物事をはっきりと捉えられる。そして覚えやすい。だから忘れられないのだろう。自滅。

そのために、別の言葉を取り入れる。別のやり方を学ぶ。それは既存の思いを塗りつぶして下層にするとか、薄めるとか、そういった構成だ。これが消費社会の養分だ。

そうではなく、器の中から忘れられないものを減らしたかったのだろうに。


忘れること。頑張って忘れることはできないのだろう。ただし、その言葉を気にしないことはできる。気にならないのだから忘れやすい。この辺りは禅の哲学:鈴木大拙だとかを読んでいて、つかめてきた。

ここを取り出すと、禅やゲシュタルトの視界といった感じで、つまりそれは二元的に世界を眺めていない状態だ。言葉の上での理解ではなく、実際に見てわかることをプレーンな基礎現実として土台にしていく。その上に、言葉での説明が乗ってくる。


プレーンな現実には言葉はくっついていなかった。言葉をくっつけたのは人間だった。人参に栄養があるよなんて人参は一言もいっていない。

見てわかることと、言葉でわかることが一致しないことがある。陰陽の図がある。調べるか思い浮かべてほしい。

図を一個もんとして見ていたら、白は非白であり、黒は非黒である。白は黒であり黒は白である。白の部分は非白で作られ、黒の部分は非黒で作られている。文にしてみるとメチャクチャなことを言っているのだが、言葉を使わず見たままにしてみたら確かにそうだ。


つまりは論理だけでなく、感性も働かせていこうよ!ということだ。自然が、というのに、自然を無視してしまっていることに気がつけないのだよ。

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