欲求成長才能

現代の社会は、人間の社会性によって出来上がる社会ではなく、仕組みが先立ち、人々を従わせる組織になってしまいました。資本主義が個々の内面にまで浸透した現在は、多くの人が違和感を抱えながら生きています。高度化した資本主義は意味価値を優先し、遊びや感情の自由を制限してしまい、恋愛や豊かな関係性をも阻害しているようです。このような「資本主義が内在化した社会」では、柔軟性を失った硬直的な思考が支配的となり、心の健康を損なう要因となっているのではないでしょうか。

基本的な欲求である食欲や性欲が軽視されることで、精神的な問題が解決されず、代替的なモノや行動への依存が生まれるのではないかと思います。心の根幹となる部分が落ち着かないために、自らの興味や欲望の芯を持つことができず、内面で、本音が建前に攻撃されるような「心のアレルギー反応」が生じ、さらに心の健康から遠ざかっているように思えます。

自己実現とは何でしょうか。現実の中で自己を実現するとは、人間という動物として健やかに生きることではないでしょうか。何かを成し遂げることは、脳が生み出す欲望だと思います。

身体が自然にやろうとすることを尊重するのが本来の人間動物の在り方です。しかし、もし思考によって行動を制御するのであれば、日々の作業のひと手間を惜しまないように制御し、よい意味でのクセを育てる。そこに自己実現への動きがあると考えます。


一方で、人間は「勘違い」を通じて高度な能力を発揮してきたとも言えます。過去には、誤解や思い込みが結果的に創造力を刺激し、新たな発展をもたらしたことも多いでしょう。しかし、他者やメディアによって意図的に勘違いを誘導されると、本来の振れが奪われる危険があります。

親が決めた人生はだいぶ少なくなったのかもしれませんが、マスメディアの影響力は依然として強いままです。ここまでメディアが「パンとサーカス」として機能する社会では、大衆は幸福な監禁を求め、自由な生から遠ざかっていくはずです。過度に制御された人生という問題です。私たちは外部から影響を受けて生きているとはいえ、それが他者の企みによるものだとしたら、倫理的な問題があります。


近年、コミュニティの概念が広まり、一時的なつながりを提供する場面が増えています。しかしこのような今時のつながりには、鮮度としての時効があります。例えるなら、活動的な猫たちを集めるようなもので、ある猫がよく眠るようになったら集団から外され、そのうちに鮮度維持に脅迫的な集団へと変貌してしまう。

本来、興味のあることは一人でも取り組むものです。マイペースにやることがわからないのなら、「私」が確立されていないのだと思います。

共通の興味で人が集まったりつながったりすることに問題はありません。しかし何かの仲間に属していれば、自前の情熱がなくても情熱があるように見せかけることができてしまいます。それは一時的な誤魔化しです。結局、幸福な監禁と不安定な自由の問題に行き着くのです。このような状況では、自己実現どころか、情熱を装うことで自己を見失う危険が伴い、個人や、社会のつながりを、不安定にしてしまうのではないでしょうか。


現代では、自分の将来を獲得するために、可能性を取るかわがままを取るかといった選択になっているように見えます。「アリかキリギリスか」という二項に極端に分かれてしまう。そして他者との関係では、互いの心を取り合うような感覚が広がっています。さらに、自らの拡大だけに意識が向き、いったん選択をした後には変わろうとしない傾向が強まっているように思います。結果として個々の変化が停滞し、時代が変われば問題あるように思われてしまう。

そうではなく、我が弱いから我は変化できるのではないでしょうか。才能は、特定の考えに支配されない、自由な自分が成長したものだと思います。人は、現実や他者との関わりを通じて変化しながら、能力を作っていくのだと思います。

私は、ある年配の人格者と出会い、彼の優しさと厳しさに触れて、身が引き締まる思いをしました。また、年下の女性から受けたダメ出しにも同じ感覚を覚えました。こうした経験を重ねる中で、自分がどのような人物や物事から影響を受け、それが自分にとってどのように作用するのかを知ることが、新たな成長を促す鍵となると思います。どのような影響が自分にとって良いものなのかを見極めることが、豊かな生を築く上で重要なのかもしれません。

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