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【短編小説】春眠

 中国の詩人である孟浩然は「春眠不覚暁」という詩を書いた。
現代語に訳すと「春の眠りは朝が来たのもわからない」という意味である。
現代語に訳したものを見ても、キヨトはよく意味がわからなかった。
キヨトなりに考えはした。
春は気候的に気持ちがよくて、朝がきてもなかなか起きられないという
のんびり、ふんわりした詩だと解釈していた。

 キヨトにとって朝はどの季節もわずらわしいものだ。
しかものんびり、ふんわりなんて言葉は一切存在せず、
ただ朝の光が体を刺し、重い瞼を開けなければならないという
半強制の行動が嫌で嫌でたまらなかった。
少しでも気を抜けばまた眠りの中に落ちてしまう。
休みの日は体が自然に起きるまでずっとそれを繰り返すのが
幸せでならなかった。

「キヨト、はやく準備しろ」
喪服を着た父が通りしなにキヨトの部屋を声を掛ける。
母は箪笥の上の小さな小物入れの中にあるはずの数珠を探していた。
手にはすでに二つ握られているが、もう一つ探しているようだ。
爪先立ちで、顎をあげで小物入れを探る滑稽な母の姿を
キヨトはまだ見てはいない。

 今日は祖父の葬式だ。
キヨトは学校を休み、葬儀に参列することになった。
それはそれでいいと思ったが、残念なことに学校へ行く時間よりも早く起こされた。普段、学校へ行く時は6時半に起こされるが、今日は6時だった。
「キヨト、もう出る時間だからさっさとしろ」

父の語調が強くなる。
キヨトは眠い目をこすりながらのそのそとベッドから起き上がった。
とりあえず短パンを脱ぎ、制服のズボンを履いた。
靴下は、一応黒にすべきかいつもの学校指定の白いものでいいのかわからなかったから両方を丸めてズボンのポケットに入れた。
上は肌着一枚、手にシャツと学ランを持ち部屋を出た。

「キヨちゃん、台所におにぎりあるからさっと食べちゃいな。
片道2時間はかかるからね。お腹空いても寄るところがないから」

母親は三つ目の数珠を見つけたかどうかはわからないが
今はネックレスを立ってつけようとしている。
両腕を首の後ろへ持っていき、首を少し前に傾けている。
壁に掛かった小さい鏡で確認するが意味はない。

「あのさ。靴下ってどっちがいいのかな、黒と白」
母はネックレスを無事つけ終わり、キヨトの言葉は聞いていなかったようで
おにぎり、と台所を指差しまた箪笥へ向かった。
三つ目の数珠はまだだったようだ。

台所へ向かう途中、父とすれ違った。
父は親戚と連絡を取り合っているようで、手には携帯電話が握られていた。

「キヨト、まだそんな格好をしているのか。もう出る時間なんだ。
早く服を着ろ」

「あのさ。靴下って」
キヨトがズボンのポケットから靴下を出そうとした時、携帯電話がなった。
父は素早く通話ボタンを押してもしもし、と電話に出た。
キヨトを一瞥し、キヨトが手に持ったシャツと学ランをぐっと胸に押し付けた。

キヨトは洗面台へ行き、顔を洗い歯を磨きシャツと学ランを着た。
違う部屋から父の電話の声が聞こえる。
母はバッグの中に何かしらの書類を入れている。

父と母とキヨトは車に乗り、片道二時間の旅へ出発した。
キヨトの制服は標準だった。変にいじったりしていない買ったままの状態だ。しかしキヨトの足元は何かが足りていなかった。

靴下だ。キヨトは靴下を履かずに革靴を履いていた。ズボンのポケットは異様に膨らんでいる。黒と白の靴下が入っているからだ。
キヨトも意地になっていた。
どちらかはっきり答えてくれるまでは履いてなるものか、と。
しかし父も母もキヨトの足元に何かが足りていないことに気が付きもしなかった。素足で革靴を履いていることが気持ち悪かった。
すこし蒸れてきている気もするが、我慢できないほどでもない。

車中で父と母は大人の会話をしていた。
親戚の誰々さんがどうとか、父の兄弟がどうとか、祖父が残したものはどうだとか話をしていた。
これは申し送りなのだ。現場に行き親戚同士に相対するとき夫婦の間で情報の不一致があっては困るからここで情報のすり合わせをしている。

キヨトは窓の外を眺めている。
キヨトはこの道を数年ぶりに通る。もはや祖父の顔すらはっきりと覚えていない。そんな久しぶりに見る祖父の顔が遺体の顔であるということが
キヨトにはまだ実感として湧いていなかった。

「キヨト、おばあちゃんにちゃんと挨拶するんだよ」
助手席の母が急に後部座席を振り返り、キヨトに声をかける。
「勝手な行動はするなよ。父さんと母さんのそばで立っているだけでいいから」
父はルームミラーでキヨトを見ている。

「ほら、なんて名前だったかしら。珍しい名前の」
母が父の顔を覗く。
「キヨトと同い年ぐらいの子がいたじゃない。正枝さんのところに」
正枝さんという名前は聞いたことがあった。たまに話題になる親戚だ。
それはキヨトと同い年の子供がいるせいもあった。
あの子はああいうことになっているらしいけど、あなたは大丈夫よね?
といった具合にどこからか正枝さんの子供の状況を聞きつけ、
キヨトもその状況になっていないかと心配されることが何度もあった。

「あぁ、オト君のことかい?」父は鼻で笑うように答えた。
「そうそう。オト君。今日は彼も来るらしいよ。もしあれだったら
オト君といっしょにいなさい。だけど騒いだりしちゃダメよ」

「おい。やめとけ。キヨトとオト君は全然違うだろ。変な影響があるかもしれない」
父は眉間に皺を寄せ露骨に嫌な顔をした。

母はそうかしら、と俯いてしまった。

オト君は別に不良ではない。悪さもしない。
どちらかといえば優等生だ。学校の成績は常に学年で5位以内にはいた。
先生からの受けもよく、友達も多い。そこそこの恋愛もするぐらい顔も悪くない。スポーツだって得意というわけではないが平均よりは上だ。

そんなオト君に父と母がいい印象を抱いていないのは、単純な嫉みであることをキヨトは知っていた。
キヨトはオト君とは真逆であった。
成績もお世辞にはいいとはいえず、スポーツは苦手だし浮ついた噂も皆無、
先生からはその他大勢の生徒のひとりでしかなく、決まった友人が二、三人ほどしかいなかった。
そんなキヨトに対して父と母は歯痒い気持ちも最初はあったが、
キヨトがそういうタイプではないことと、悪さなどすることなく淡々とした暮らしぶりを見て諦めた。
しかし同じ歳のオト君を横に並べれば差が歴然となる。
父はキヨトをオト君の隣に並べたくないからそばに置こうとした。

 片道二時間はキヨトが思うほど長くはなかった。
よくよく考えれば、映画一本分である。そんなに長いはずはない。
祖父の家に着くと家の前に数台の車が停まっており数人の大人が立ち話をしている。その中に目立って小さくまとまった老人がいた。
祖母だ。祖母はキヨトが覚えているサイズよりも一回りも二回りも小さくなっていた。腰が曲がっているわけではない。
キヨト自身が大きくなってこともあるがそれにしても小さい。

その小さい祖母はキヨトを見つけ、おぼつかない足取りで近寄ってきた。
両腕を精一杯伸ばし、今にも抱きつかれてしまうのではないかとキヨトは警戒した。そういうのが恥ずかしい時期だ。父と母が挨拶をしている間も、
祖母はキヨトに気を取られ挨拶なんて聞いていなかった。

「キヨト君、さぁ、お上がりなさい。こんなとこに立ってないで、ね」
キヨトは手を引かれ玄関まで連れていかれる。父が行儀良くしろよ、と後ろから声をかけたがキヨトは聞こえないふりをした。

「あのね、オト君も来ているよ」
祖母は父と母に聞こえないようにこそっとキヨトに告げた。
昔の人はすごい。父と母の本質的な心情を祖母は見抜いていた。

玄関をあけると、そこに一人の少年が立っていた。
髪は寝癖がついていて跳ねている。装いは白いシャツにカーディガン、毛玉だらけのカーディガンを重ねていた。
ズボンはベージュのシンプルなものだが裾が擦り切れていてボロボロだった。

「やぁ。キヨト君。久しぶり」
少年は身長がキヨトより少し高い。キヨトは靴を脱いで玄関へ上がろうとした時に気が付いた。まだ素足のままだった。
あれから車内でも靴下の話題になることはなかったし、何よりキヨト自身が素足に革靴、という状態に慣れてしまったからだった。
キヨトは一瞬にして恥ずかしさが込み上げてきた。
この少年の前で靴を脱ぐことが嫌だった。

 少年が手を差し出す。
「さ、早く入んなよ。母さんが持ってきたお菓子があるんだ。一緒に食べよう」そう言いながら少年は何の違和感もなく、擦り切れたズボンの先にあるスリッパを脱いだ。
それを見てキヨトは何の躊躇いもなく、靴を脱いだ。
素足のまま床に足をついた。

少年の足元には靴下が白と黒、片方ずつ色違いで履かれていた。
「オト君、ひさしぶり」
キヨトは少年の手を取り、べたべたと歩いた。

祖父母の家の玄関には掛け軸が飾ってあった。達筆で書かれていて
何が書かれているかはキヨトはわからなかった。

春眠不覚暁。
掛け軸にはそう書かれていた。





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