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【短編小説】小道と自転車
小学校の時、自転車がすべてだったことを思い出したのは、
今まさに小学生ぐらいの子どもが自転車で歩く私の横を過ぎ去っていったからだ。
その自転車の子どもは少し腰を浮かせて、足に力を入れている。
半ズボンから伸びるふとももには力が入っているが、
上半身の発達が十分でないため、自転車全体は左右に揺れている。
それでも前に進むには十分である。
過ぎ去っていく子どもの自転車を後ろから見る。
買ったばかりではない。もう何年も使われているようだ。
この自転車の使用年数と子どもの年齢には差があるので、兄弟のおさがりであることは一眼でわかる。
後ろの車輪のカバーには、なにかシールが貼ってあった跡がある。
年月が経ち、自然に剥がれたかこの子どもに渡る時にわざと剥がしたかまではわからない。
夕方はこんなにも冷え込むものだと気付いたのも久しぶりだった。
夏も終わり完全に秋に入ったことを肌で感じる瞬間である。
しかしわたしはその感覚を何年も忘れていた。
働き出すと、日中はほとんど社屋の中で過ごし、帰りも電車とバスを乗り継ぎ家に帰る。
季節の移ろいを感じる暇はなかった。
いや、なかったのは“暇”ではなく、“余裕”だったのだろう。
この時間に当てもなく散歩に出ることもなかったし、空いた時間に散歩しようなんて思ったことがなかった。
仕事をやめたわたしにあるのは、膨大な時間だけ。
朝、人の流れに沿って電車に吸い込まれることも、
昼、社員食堂のたいして食べたくもないメニュー目当てに列に並ぶことも、
夜、さっさと自宅に帰りたいために、何人もの人を押し退け電車からバスへと乗り継ぐ、なんてことはしなくていい。
朝は自然に目が覚めるまで寝て、昼はお腹が空いたら何が食べたいかじっくり考え、夜はパソコンもテレビもケータイも電源を切り、無音を感じる。
時間だけが今のわたしの“ともだち”だった。
今日はたまたま夕方に散歩に出たくなった。
別に場所は決めてはいない。
よく考えてみれば、わたしはこの家に越してきて5年になるが、
自分が歩く道以外を通ったことがなかった。
バス停までの道のりはわかるのだが、バス停までの道の途中にある小さな小道の先はどんな道なのか、どこへ通じているのか知らない。
時間という“ともだち”が言った。
「あの小道の先、行ってみない?」
わたしはそうだね、とだけ答えて上着を一枚羽織って散歩にでることにした。
いつもの道を歩き、小道の手前で立ち止まる。
“小道”だと思っていた道は“小道”というほど道幅は小さくなかった。
ただ、私が歩く道はきちんと舗装されているのに対して“小道”はアスファルトこそ敷いてあるもののなんだか古びていた。
さらにまわりにある住宅も、私が歩く道の方は豪華とは言わないにしても現代チックで、デザインがなされていておしゃれな現代建築だったが、
“小道”にある住宅は、古風な家や朽ちた家、まだ人が住んでいるかどうかわからない家が立ち並んでいた。
一本の道をこうやって横に入るだけで、こんなにも景色が違うのかと少し戸惑ってしまう。
小道に向かって歩く。
足元を見るとここが境界ですよ、と言わんばかりにアスファルトの色が変わっている。
耳を澄ますと、子どもの遊ぶ声がかすかに聞こえる。
近くに公園でもあるのだろうか。
どこからか揚げ物の匂いがする。
側溝に子どもの時よく食べていたお菓子の袋が枯葉に混じって落ちている。
まるでこの小道は、わたしのこどもの頃を追体験しているような風景だった。
子どもの頃は将来に不安を感じることもなく、希望すら感じていなかった。
あるのはただただ“風景”だった。
自転車で過ぎ去る風景は流れる人生と同義だった。
地域で流れる6時のチャイムが聞こえた。
歩いているわたしのうしろで明るい声が聞こえた。
「ばいばい!」
振り返ろうとした時、じっとりと汗ばんだシャツの香りと、
さっきまで走り回って熱を帯びた体温が過ぎ去る時間といっしょに
わたしを撫でた。
小学生ぐらいの子どもが自転車で歩く私の横を過ぎ去っていった。
小学校の時、自転車がすべてだった。