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短編小説【飴】
タクシーからの風景は久しぶりだった。
自家用車とは印象が違う。
それは助手席ではなく、後部座席に座っているからだろうか。
マイコは携帯を手に持って入るが、窓の外に顔ごと向けていた。
若い時に、タクシーばかり使っていてことを思い出していた。
かなり贅沢な話で、生意気だと思う。
この歳になって初めてタクシーがいかに贅沢か、
いかに生意気であるかを知った。
もっと贅沢な話をすれば、
マイコはその若い時にタクシー代を払ったことがなかった。
毎回無賃乗車していたわけではない。
マイコはある集団というか、グループの一員だった。
そのグループは何かの呼びかけや約束で集まった集団ではなく、
なんとなく集まっただけの有象無象の集団だった。
その集団に、ある女友達と一緒にしょっちゅう顔を出していた。
その集団の暗黙の了解として、女の子が帰る時には
男の子がタクシー代を払うという決まりがあった。
だからマイコはタクシー代を払ったことがないのだ。
「お客さん、ちょっと混んでますね。この感じだと事故かなぁ。」
運転手は気安く話しかけてくる。
マイコは実際の年齢よりも若く見える。
十代後半から二十代前半にみられることが多い。
実際は二十代後半で、子供も二人いる。
夫はいない。
マイコはこのいない夫のことをずいぶん前に考えることをやめていた。
考えることも、人に話すことも、夫にまつわること全てをやめた。
だからマイコの親しい人間でさえ、夫がいない理由を知らない。
「長くかかりそうですか?」
二十代になった頃、高校生に間違われることを少しは嬉しく思ったりもした。しかし歳を重ねると、それが実は舐められていることに気がついた。
このタクシーの運転手もそうだ。
“若い女がタクシーなんぞ使いやがって、贅沢だ”と心の声が
言葉の端端に引っかかって見える。
「まぁ。なんとも言えないけどねぇ。急いでるのかな?」
「はい。ちょっと約束があって。」
「もしかして男?お嬢さん美人だし、男がほっとかないよねぇ。」
マイコは携帯に目を落とした。
こういった類の会話、今で言うセクハラに相当するだろう会話には慣れていた。慣れてはいるが、気分がいいものではない。
マイコはその問いなのか、ただのセクハラの皮を被った雑談なのかわからない言葉を無視することにした。
そういえば実際に若い時にタクシーで怖い思いをしたことがあった。
いつも通り、タクシーを呼び女友達と二人で乗車した。
その運転手はかなり愛想が良く、運転中も笑い話もした。
同乗していた女友達が先に降りることが恒例だった。
家はさほど離れてはいないが、マイコは面倒見にいい方だった。
いわゆる姉御肌、というやつだ。
それに対して、同乗していた女友達はまだまだ子供で、
あぶなっかしい面があった。
マイコはその女友達の尻拭いをするのが役目だった。
悪い意味ではなく、ただ暴走しないように見守っていた。
女友達が先に降りた後は、車中には運転手とマイコの二人っきりだ。
他の運転手なら無言に徹しているはずなのに、この運転手は違った。
女友達と乗っている時と同じように、気安く軽口を叩いたり、
やたら話しかけてくるのだ。
マイコの家はかなり人気のない場所にあった。
田舎なのでほぼ一本道で、どこかで曲がろうものなら誰かの私有地だったり畑や雑木林に行きあたるほどだった。
だんだんと会話の内容が際どくなる中、運転手は絶対にありもしない近道を使うと言い、人気のない道からもっと人気のない道へ進もうとした。
人気のない道へ進む中、マイコはあの集団の話に話題を変えた。
すると運転手はあの集団を、いやあの集団の中のとある一人をよく知っていた。あの集団の話をした頃から口数は減り、踵を返すように通常の帰宅ルートへ戻り、数分もかからないうちに家についた。
料金はもらっているから、と言いながらヘラヘラ笑い、
長くかかってごめんね、ほんとはこの道よく知らないんだ、と
言い訳がましいことを言っていた。
何をしようとしていたかはマイコは気づいていた。
タクシーから降りて、自宅への数メートルを歩く時になって
初めて背筋がゾッとした。
この件はあの集団の中のあいつに話さなければならない。
もしマイコではなく、他の誰かがこの運転手と当たってしまったら
大変なことになるかもしれない、と思った。
集団が空中分裂して、誰も集まらなくなったことをきっかけに
タクシーの利用も減った。
そして今、久しぶりにタクシーを使っている。
「あぁ。やっぱり事故だね。ほら、見て。ちょっと先にパトカーいるでしょ?」
運転手はなぜか嬉々としていた。
運転が仕事なのだから、事故ぐらい見飽きているのではないか。
マイコはそう言いかけたが、下手に会話に乗ってしまうと
以前のような怖い目に遭うかもと思うと、
「そうですね。」としか返せなかった。
トラウマでもないし、別にこの歳で弱さをアピールするつもりもない。
ただめんどくさいことに巻き込まれたくないだけだ。
「どうします?これ事故処理まだかかりそうですよ。結構車、いっちゃてるし片側通行になってるよ。」
この道路の真ん中で、しかもバス停などもかなり先にある道でどうしろと言うんだ。
マイコはフロントガラスを覗き込むために窓際から少しシートの真ん中へずれた。軽トラらしき車が前のファミリーカーに重なって見える。
明らかに変な停まり方をしているし、
側面がひしゃげていることがかろうじて確認できた。
「待つしかないですよね。バス停もまだ先だし。」
「うーん。ちょっと先に行ったら右折があってね、そこを曲がれば
この渋滞は避けれるけど、迂回しちゃうから遠回りになっちゃうんだ。
どうする?」
「どれぐらいかかります?」
「そうだねぇ。まぁプラス二十分ぐらいかな。だから、まぁ、
ここから目的地までだと、五十分ぐらいだね。」
「約一時間ぐらいですね、どうしようかな。」
「たぶん右折した方がいいかもしれないね。ここ1時間で解消される保証はないから。ほら、あそこにでかい商業施設できたでしょ。
あそこって駐車場から出る時に事故が多いんだよ。
駐車場から出ようとする車と、こっち側からの交通もあるし、
事故処理終わって誘導してもなかなか進まないんじゃないかなぁ。」
この一連の会話でマイコはこの運転手に危険がないことを悟った。
めんどくさいことにはならないと思ったら、結構無理を言ってもいいような気がしてきた。どうせ若い女だと思って舐めてかかってるんだから
世間知らずのふりをしてわがままを言ってやろうかとも思った。
マイコは自分の性格が変わってしまったことに気がついている。
昔は姉御肌で、面倒見が良く、常識人だと思っていた。
それがいつの間にか、性格が捩れてしまった。
生きていく中で経験値というものを獲得したからだ。
いいことよりも悪いことの方が多かった。
辛いことの方が多かった。
やるせないことや、悔しかったことの方が多かった。
それを誰にも言えなかった。
マイコは“保護者”という立場というかキャラクターだったから
自ら弱音を吐くことや、間違ったことは言えないと思っていた。
そういうことが重なり、知らぬ間に人との間に壁を作り、
本心を隠し、人の過ちを期待するようになった。
人の過ちの尻拭いをすることでしか、自分の不幸を薄めることができなくなっていた。
「待ちましょう。気長に。」
マイコはシートに深く腰を埋めながら言った。
「いいんですか?お約束、あるんでしょ?」
「いいんです。たいしたやつじゃないんで。それより待ってる間、
なんかおもしろい話、してくださいよ。変なお客さんの話とか。」
運転手とミラー越しに目が合う。
それでは、と運転手は助手席に置いてあるバインダーを持ち上げる。
そこにはかわいらしい小さな籐のカゴがあって、
ころころと、いくつかの飴が入ってた。
「お好きなものをどうぞ。」
そのカゴを手渡される。
おそらくいちご味だろう赤い飴をひとつ、手に取る。
ありがとう、とお礼を言う。
「じゃあ、昔の話なんだけど僕がある田舎で運転手やってた時の話でね、
ある若い子のグループがいつも僕の勤めるタクシー会社を使ってくれてたんだよ。その頃に・・・。」
飴はいちご味ではなかった。
甘いだけの、なんの味もしない、ただの飴だった。