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【短編小説】見て見ぬふり
私は《見て見ぬふり》が得意だ。
毎日、毎時間、毎分、毎秒、瞬間瞬間において《見ぬふり》をしている。
今日の朝は明らかに迷子であろう少年が半べそをかきながら駅の券売機の前に立ち尽くしていた。
周りの大人たちは気にはするけど、声をかけるべきなのか放置しておくべきなのかを躊躇しているようだった。
そういう大人ばかりでなく、逆に絶対に声をかけてなるものかという意固地なオーラが滲み出ている者もいた。
朝の忙しい時間に他所の子供にかまっている暇はないと、駅の雑踏の中で立ちすくむ子供の前を何の遠慮もなしに通り過ぎる。
そんな中、私はどちらでもない。前者の大人のように躊躇しているわけでもなく後者のように意固地になっているわけでもない。ただ、その迷子の子供を認識すると同時に視界から消した。そこにいるはずの迷子の子供の存在を私の意識から消してしまう。罪悪感はない。
例えば、その子供が誰からも声かけられず不運な事故や犯罪に巻き込まれ命を落としたとしても私は罪悪感を感じない。
躊躇している大人や意固地になっている大人はそのニュースを見て、
あの時の子供だとわかった瞬間に罪悪感に苛まれるだろう。
あの時私が声をかけていいれば、と後悔を美談にして語り数分後には
同僚や友人、恋人とともにおいしい食事をしたりしながら笑顔で暮らすのだ。おしゃれなカフェでのランチを写真に撮り、SNSに投稿し《いいね》の数を数える。その《いいね》の数が多ければ多いほど、子供の命が失われた罪悪感を帳消しにしてくれるらしい。彼らは一瞬の罪悪感の苦みを感じ、その苦みを中和するために暮らしの中で甘味を見つけ出す。その耽美な甘味は人を堕落させる麻薬のようなものだ。
私はそんな苦みも甘味も感じない。なぜならそんな子供は私の意識の中には最初からいなかったからだ。子供が不運な事件に巻き込まれたとしても
それは私がいた駅の話ではない。どこか遠くの街の、知らない国にある
行ったこともない駅での話。一瞬の罪悪感という苦みもそれを誤魔化す耽美な甘味も私は必要としない。
私がこの《見て見ぬふり》を始めたのは中学生の頃だった。
信じられないかもしれないが私は《この世のものではないもの》がはっきりと見えていた。自我が芽生える頃にはそういうものがそこらじゅうにいて
みんなも見えているものだと思っていたし、別段なにかしてくるわけでもなかった。その《この世のものではないもの》というのはお化けや霊といったものではない。この話をすると人はいつも血まみれの人間とか落武者だとか
兵隊さんとかをイメージするようだが残念ながら違う。
お化けや霊の類は今まで一度も見たことがない。
私が見ていた《この世のものではないもの》とはほぼ何かの動物の形をしている。お化けや霊よりも妖怪に近い。近いとは言っても妖怪ではない。
単なる動物である。おどろおどろしい外見などではなくただの生物の格好をしている。動物園の動物が檻や柵を飛び越え街に放たれた状態だと思えば私が見ていたものと近くなる。一般的な動物と決定的な違いはそんな姿、そんな格好の動物など存在しないと言う点である。
靴のサイズほどのワニのような犬を見たことがある。なぜ犬なのかというと四本足で立っていたからだ。高層マンションの陰からは大きなキリンのような生物が顔を出したこともあった。見た目はキリンだが、大きすぎる。
規格外の大きさである。よってキリンの“ような”生物である。
小さな頃は、何か見える度に両親や友達に言ってはいたがやはりいい顔はされない。両親は何かの漫画やアニメの話をしているか、幼い子供特有の空想遊びかと思う。しかし私が本気で語れば語るほど両親は顔を見合わせ心配そうな顔をする。小学校に入ると、やはり同じように一瞬は友達も興味を持つのだが、本気になればなるほど気味悪がられた。
その時、私以外には見えていないということがはっきりわかった。
この禍々しい生物たちは私にしか見えないのだと確信した。
その確信を得て、人間の中でうまく生きていくには図鑑に載っている動物以外の生き物の話をしたり、見えているということを口に出すべきではないと思い《見て見ぬふり》を極めていった。私は誰とでもうまくやれるようになった。
ただ、最近になってあることに気がついた。
今までは爬虫類や両生類、魚類や鳥類といったいわば人類以外のものだった。しかし最近になってよく見るようになった生物は人類にそっくりなのだ。職場の窓から見た大きな鳥には確実に足があった。足、というのは人間の足である。くるぶしがあり脛があり膝があった。
帰りのコンビニの前では、顔がカエルで二足歩行の生物が走り去った。
それを私は他の生物と区別するために“獣人間”とよぶことにした。
さすがにこういった生物を見ると、私も驚かざるを得ない。
最近やけにたくさん見かける。
一週間ほど前、最寄りの電車を降り徒歩で自宅へ向かっていた。
電車の中でたくさんの“獣人間”を見た。いつもより多めに。
ちょっと前までは人混みの中にチラッと横切る程度とか、
帰宅ラッシュの電車の中に、一匹いればいい方だった。
しかし駅構内から電車内までそのほとんどが“獣人間”であった。
大きな目をぎょろぎょろさせて、口から長い舌を何枚か覗かせている高校生はさきほどから友人の言葉に同意しかしていない。
俯いたサラリーマンは顔のサイドについている耳がやたらと長く、ピンク色の鼻をすんすん、と鳴らしてかわいらしいがその目は血のように赤い。
窮屈な電車の中なのに大声で電話をしているおばさんの嘴は黄色い。
腕がやたら長く、ナックルウォーキングの大勢で立つメガネをかけた老人を目の前にして座り続ける女は黒々としたフリッパーをファンデーションで白く塗っている。
私が見る人たちがどんどん獣人間と入れ替わっていった。
昨日まで普通だった課長はお尻から尻尾がはみ出ていて、企画会議の時に
部長が話し始めると真面目な顔をして尻尾を振っていた。
今ではもう純粋な人間、いわゆる人類を見ることの方が少なくなった。
数少ない人類を見かけると話しかけたくなるが、《見て見ぬふり》を極めた私は話しかける勇気を失っていた。れっきとした人類を見た時でさえ《見て見ぬふり》をするようになった。
今、私は駅のホームの中でもと来た道を引き返している。
たくさんの“獣人間”は同じ方向へ向かう。
私だけ逆走している。何度も誰かと、幾度となく何かの肩がぶつかる。
ぶつかるのは肩だけでない。羽や角、前足後ろ足、嘴。
さまざまな部位が逆走する私の体にぶつかり攻撃してくる。
その“獣人間”たちはぶつかる私が見えていないのかもしれない。
見えていたとしても、見えないふりをしているのかも。
今までの私と同じように、《見て見ぬふり》をしているのかも。
あの場所までもう少しかかる。広い駅だ。
踵を返したのはホームにたどり着く一歩手前だった。
そこから私は逆走を始めた。このままだと遅刻は確実。商談にだって間に合わない。尻尾を振る課長は牙を剥き出して威嚇しながら怒るだろう。
でもそんなことはもう関係ない。逆走の先にいる券売機の前で立ち尽くす少年を目指して逆走する。
私はお前らとは違う。私は断じて“獣人間”とは違う。
私は人間だ。誰かの不幸を同じ気持ちで悲しむことができる人間だ。
私は人間だ。困ったときはお互い様という祖母の言葉が大好きだ。
私は人間だ。大人として子供は慈しむべきだ。
私は人間だ。獣のように欲に塗れて貪るだけではない。
私は人間だ。心が、ある。
いつのまにか呪文のように唱えていた。
電車の発車ベルが聞こえる。耳が痛い。ずっと前から電車の発車ベルは苦手だった。急ごう、あの少年のところへ。
同じ方向へ粛々と向かう“獣人間”が邪魔で仕方ない。
走りながら無意識に両手を広げて、自分の周りの空間を作ろうとした。
腕と胴体の間の飛膜が邪魔だから細い指でビリビリと破りながら走った。
破った飛膜を目についたダストボックスに放った。
券売機が見える。少年が見える。小さな指を目の前にかざし、
少年からするとはるか上にある路線図を辿っている。
目には今にもこぼれ落ちそうな涙が震えていた。
私はそれを美しいと思った。涙は美しいものだと思った。
私は人間だ。
少年の目の前にたどり着いた。
「どこまで行きたいの?」
息が上がっている私を少年は見上げる。少年は照れ臭そうにくしゃくしゃの紙を差し出す。そのとき少年は安堵したのかにっこりと笑った。
にっこり笑うのと同時に大粒の涙が、雪崩のように頬を流れた。
その涙を私はやっぱり美しいと思った。私は人間だ。
腕と胴体の間にある破れた飛膜を隠すように腕を後ろ手に組んだ。
私は、人間だ。