【長編小説】分岐するパラノイア-weiss-【S20】
<Section 20 届かぬ一歩は咎人の前にある>
目に前に見えているはずの森は遠い。
森自体が遠ざかっているのか、僕が一歩も進んでいないのか見えているはずの森には一向に足は届かない。
思えば自分の人生のようだ。
到着地点は見えていて一歩一歩進んでいるはずなのに一向に辿り着けない。
僕は別に記録士になんてなるつもりではなかった。
記録士は生涯職業というものでなかなかいい待遇だが
自ら辞職したり転職したりすることはできない。
一度記録士という世界に踏み入ると最後。
死ぬまで辞めることはできない。
それがもしできたとしても、
すでに社会で生きていくためだけの余力はもうない。
他人が一生懸命社会で生きるために自分を削ぎ落とす間
私は記録士の椅子に座っていた。
気がつけば僕にできることは何もない。
ただ毎日同じ図書館へ行き同じ作業を繰り返す。
記録という名の作業を延々と繰り返す。
今僕はただ森を目指している。
その森まで僕はただ足を右、左と交互に出すことしかできない。
森は見えている。
ちゃんとそこにある。
一度足を止めて振り返ってみる。
そこには茫漠とした荒野が広がっているだけだった。
つい数時間前まで見ていた街並みが嘘のようだった。
もしかしたら数時間前の街並みは幻で
この荒野こそが現実かもしれないというなんとも言えない気持ちになる。
僕のこれまでも実はこの荒野のようなもので実は何もない、
茫漠とした人生なのかもしれない。
歩いているようで、進んでいるようで実はずっと同じ場所に立ち続けているのかもしれない。
僕はこの仕事をやり遂げることができるだろうか。
始まったばかりの旅は僕の自信を食い尽くすつもりだ。
とはいえ自信があるわけではない。
責任感や使命感でもない。
ただ今この時、こうやってしか生きていけないのだ。
まさに幻かと疑うあの街並みで暮らす人々より
僕は何もできない。
そんな僕の何を食い尽くすと言うのだ。
ただの操り人形のように機械的な動きを繰り返すことしかできない
ぼくを一体どう食い尽くすのか。
目の前の森に足が届くなんて実は誰も保証していない。
気がつけば今より遠く離れてしまっていることだってあるのではないか。
僕は何もできない。
ただ、一歩一歩、交互に、足を、出す。
右、左、右、左、右、左。
靴が砂を噛む音と自分の息だけを聞きながら進むのは
本当に辛い。
誰かに「遠いね」とか「まだかなぁ」とか
愚痴でもいいから話しかけてほしい。
その時は僕も「そうだね」とか「もう少しのはずだよ」とか
どうでもいい返事をしよう。
ハンスは無事だろうか。
スカーレットはハンスが無事ではないと思っているのだろう。
しかしぼくはハンスを助けたい。
むしろぼくにとってはそっちが重要な目的かもしれない。
友達なんだ。
何か得体のしれない策略のせいで日常が奪われるなんて酷すぎる。
これは経験からくる言葉だ。
ぼくは聖人君子ではないし、いい子ぶるつもりもない。
奪った側だからこそ言える言葉だ。
ぼくにはとある友達がいた。
名をルーパといった。
ぼくと彼はぼくが記録士になる前に出会っていて、
記録士になる前に縁が切れた。
ぼくがルーパの日常を奪ったからだ。
ルーパは街で野菜を売る青年だった。
歳が同じということと、些細なきっかけで仲良くなった。
ぼくたちはいろんな遊びをした。
いろんなところへ行った。
まるで青春映画のような言い回しだが、そんな美談ではない。
当時ぼくはまだ記録士でもなく、ただの人間だった。
わずかな金を稼ぎ、適当に浪費して生活していた。
ルーパとぼくの青春映画のような生活を維持していたのは
ルーパ自身の貯金だった。
ルーパはぼくの日々の糧や遊びに行った先で払う金を払っていた。
ルーパは学校を出てすぐ野菜を売る仕事をしていたので、
当時のぼくでは見たこともない額の貯金があった。
ぼくはそれに甘え、頼りっきりだった。
そのくせ、ぼくはルーパに対しては礼を欠いた態度だった。
何かあれば文句を言い、機嫌を損ねる。
その間もルーパは金を払い続ける。
相当な額をルーパは使い、
学校を出てからの野菜屋で貯めた貯金をすべて使い果たし
ぼくの前から姿を消した。
ルーパはぼくのわがままのせいで日常を奪われた。
ぼくは何も考えずルーパの日常を奪った。
彼はぼくと出会わなければ、ぼくよりもずっとずっと可能性はあった。
素晴らしい可能性があったはずだ。
彼が今どこかで幸せならそれでいい。
しかし違う世界線、すなわち僕ぼくと出会っていない世界線では
もっともっと幸せだったはずだ。
ぼくは最低な人間なのだ。
誰かを食い潰し、誰かに寄生する。
そんなぼくだからこそハンスを見つけてやりたい。
誰かにいいように扱われたのなら救ってやりたい。
それでルーパへの罪滅ぼしにならないことは知っている。
ルーパへの罪が許されることではない。
しかしぼくはその罪を僕自身が認識していることを
ぼく自身が体験したいのだ。
ルーパに対しての罪は当たり前にぼくの目の前にある。
それを実感として捉えきれていないのは、
まだルーパへの罪に足が届いてないからだ。
そこに見えていても、届くとは限らない。
一歩一歩進むしかない。
今の僕は、記録士でもなんでもない。
干からびた荒野を、人も動物もいないこの荒野を
ひとり歩くただの咎人である。
無機質な荒野のレイヤーに植物の香りが混じる。
花の香りではなく、土と幹となにかの汁混ざった
くすんだ匂い。
紛れもなく罪が、いや森が近づいてきている。