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大抵の物事は嫌うことはできても否定はできない


はじめに

ぽよっす✋
筆者が生きていて一つ気づいたことがあるならば、それは大抵の物事は嫌うことができても否定はできないということです。本記事ではその考えをもとによりよい生き方を考察します。

物事の価値を決めるのは人間


この世に絶対的真理、というものは存在しません。あるのは解釈のみです。世の物事そのものには良いも悪いも、優位も劣位も価値もないのです。例えば、殺人に対して我々は普通、悪いことだと考えます。しかし、それが仮に正当防衛の末の殺人であったならばどうでしょうか。もう一つ例を挙げると、例えば、職場の人にお土産のクッキーをあげたとします。これは良いことであると多くの人は考えるでしょう。しかし、その人が甘いものが嫌いだった場合、ありがた迷惑になってしまいます。このように、物事はそれを受け取る個人の状況や内面、その個人を取り巻く環境によって解釈が異なります。しかし、それ自体をないことにはできません。

さて、このことからよりよい生き方について考察しようと思います。

自己の解釈を分析し、理解する


上述したように、多様な物事にたいして人の数だけ多様な解釈が存在します。
しかし、人々は社会的価値というものに引っ張られて己の解釈を見失ってしまうのです。例えば、社会には大人はこうあるべき、男性ならこうあるべき、女性はこうあるべきなどといった価値観があります。そして、幼少期からの摺り込みにより、こうした価値を内面化し、共有してしまうのです。その結果、社会的価値にそぐわない人間は抑圧されたり、人々は自身の欲を我慢してしまいます。
いい大人が○○をやるのは恥ずかしい。最近の子供は○○で気持ち悪い。働かない人間に価値はない。独身は行き遅れだ。このような価値が社会には多くあります。
それによって人々は、他者の目を気にして本当はやりたくないことをやり、やりたいことを我慢することで自分が本当にやりたいことがわからなくなってしまいます。こうした価値が人々を型にはめ、苦しめ、幸福を奪うのです。

しかし、こうした社会の価値は所詮、一つの解釈です。そうした価値から離れ、自分の価値を取り戻すことこそがよりよい生き方への第一歩だと考えます。

そのためには、様々な刺激を受けた際に、それに対して自分がどう考えたかを分析し、言語化することが重要です。単純な快不快ではなくなぜそれが自分にとって快楽なのか不快なのかを考えることが自身の価値を取り戻す上で必要な作業です。それにはものを見る際に同時にそれを見ている自分の視点を見るということが重要です。

多様な価値を通して自身の価値を見直す


異なる価値に出会ったときに、それを良い悪いで考える以前にそこで何が起こっているのか、何が重要とされているのかを考え、それを通して自身の価値を見直していくということが重要な作業となります。

多様な価値を認めるということは、他者のみならず当人にとってもよいことであると考えます。個人は自己にとってよりよい価値を模索し続ける必要があると思います。それは、自身の価値が崩れたとき、大きな苦痛をもたらす危うさがあるためです。そのため姿勢として柔軟であることと能動的に異なる価値に触れていくことが重要だと考えます。

自己の価値をもとに生きる


自己の価値を取り戻した後に、その価値を実践して生きていくことこそがよりよく生きるために必要であると考えます。当然、自由になる代償には孤独があります。しかし、個人の個性的で自由な生こそが幸福な生であり、孤独を恐れ、自分を押し殺し他者に同調することがなによりも不幸ではないでしょうか。自分を不幸にするものから離れ、自分を幸福にしてくれるものに囲まれた生、やりたいことをやる生こそが幸福な生だと考えます。

おわりに

筆者自身がこうした考えに至った要因として、異文化に触れた際に、自分が普遍的だと信じていた価値は所詮一つの価値観であると強く感じたためです。
当然、否定しなければならないものもあると考えます。タイトルに「たいていの」とつけた理由はそのためです。差別やハラスメント、不当な暴力などがその典型です。あるいは、自身の価値を絶対とし、他の価値観を否定して他者に強要することは否定していかなければなりません。価値は他者の権利を侵害しない範囲であることが重要だと考えます。そうした線引きは今後、世界中の人々が話し合って考えていく必要があると思います。
筆者は自分にとってのよりよい価値を模索している最中です。今後、このnoteを通して生き方について考察を続けていきたいと考えています。そして、これがあなたの価値を見つけるヒントになれば幸いです。

読んでいただきありがとうございます🐶✋

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