優秀でも、特別でもない僕へ
ぽよっす✋
なぜ僕は特別でありたいと思うのだろうか。特別であることによって、他者から認められ、よく思われたいからだろう。しかし、他者から認められることが幸福なのだろうか。むしろ、自分が自分を認めることこそが幸福ではないだろうか。「価値のある人間」とは一体なんだろうか。仕事や勉強ができる人間か、周囲から好かれている人間なのだろうか。美しい人か、「正しい」人か。本記事ではこうした疑問をもとに承認されたいという欲望と人間の価値について考察する。
周囲からの評価によって自己の価値を定めている人間は脆弱である。人間は己にとって利益のある者には「いい人」、害のある者は「悪い人」というレッテルを貼る。利害が対立した時、人はあっさりと手のひらを返すだろう。そのため、他者依存の評価は不安定で自分にはコントロールできない。そして、そうした人は常に他者からの評価におびえ続けなければならない。これが果たして幸福なのだろうか。それは果たして自分の人生を生きていると言えるのだろうか。
承認欲求を活動の目的としている人間もいる。他者から尊敬されたい、モテたい、好かれたいといった動機で行動する人だ。しかし、他者から認められることは活動の結果の副産物であり、それ自体を活動の目的にしてはならない。その理由は、承認欲求を満たせれば手段を選ばなくなるようになるからである。SNSを見れば、肥大化した承認欲求により過激な発言や行動、破壊、虚言人権侵害といった行動に走る人間を目にする機会が多い。その人が不幸であることは言うまでもないだろう。さらには、承認欲求が目的となると活動に対して臆病になる。評価されないかもしれないという恐れが行動することを阻害するようになる。自分の目的を忘れてはならない。
これらのことから他者から承認されることは実のところ、無意味であることが明らかである。しかしどうして、承認欲求が生じるのだろうか。無論、人間は社会的な動物であり、承認欲求が生じることは自然なことである。人間の脳機能として褒められれば脳の報酬系が活性化し、幸福感を感じる。他方で、貶されたり、評価が得られないと物理的な痛みを感じる部位が活性化する。承認欲求自体は否定はできないが、重視すべきではない。
どうして人間は承認欲求に取り憑かれてしまうのだろうか。人間が承認欲求に取り憑かれてしまう理由は、自己の価値を認められないからではないだろうか。そしてそれは、幼少期に満たされなかった自己があるからではないのだろうか。
僕は昔より周囲から「価値のある人間」として扱ってほしかった。
幼少期、僕はいわゆる「いい子」だった。成績は優秀で規律を守る、思いやりのある人間として常に賞賛の対象だった。私は自身の特別さと万能感に酔いしれ、承認欲求の虜となった。しかし、本当の僕、すなわち、ずるい、弱い、愚かな僕は愛されなかった。思春期以降の僕は最底で、規律を破り、他者を憎み、誰からも愛されていない孤独な存在で、自分に価値があると思えなかった。僕は、足りない自己愛を満たすために利己主義とナルシシズムへと走った。その結果、己の在り方を捻じ曲げてまで周囲の人間に特別だと思われようとしたり、他者を見下すことで自分はまだ価値のある方だと思い込もうとしたがそれもまた自己嫌悪を深めるようになった。他者に嫌われることを恐れ、気づけば何もできなくなっていた。
しかし、僕はある思い込みをしていたことに気づく。人に褒められるような人間でなければ自分に価値はないと思い込んでいたのだ。
僕の好きな本にローマ皇帝であり哲学者のマルクス・アウレリウスによる『自省録』という本がある。彼は作中で次のように述べた。
美しいものは、すべてそれ自身で美しく、賞讃を自分の一部とは考えない。
人間はほめられても、それによって悪くもよくもならない。
エメラルドは、ほめられなければ輝きを失うか。
エメラルドは褒められるから輝くのではない。ただ存在するだけで美しく輝くのだ。人間もきっとそうではないのだろうか。認められようと認められまいと、特別であろうとなかろうと、人間が生きることには尊厳があり、それには価値があると僕は思いたい。
社会的に見て自分は価値のない人間だとしてもいいじゃないか。誰の役に立てなくてもいい。誰からも好かれなくてもいい。一位になれなくてもいい。毎日朝起きれなくてもいい。社会に全く貢献できなくてもいい。チヤホヤされたいと思ってもいい。なにより、人間の価値はそんなことでは決まらない。
母親は幼いわが子に、無力な赤子に何を望むだろうか。おそらく、「生きること」ただそれだけである。それだけで母は子に食事を与え、世話をし、気にかけるのだ。自己を愛し、肯定するためにはそれだけで十分だ。君はただ、君を肯定すればいい。