「日曜興奮更新】切ろう
「前髪、切りますか?」
「はい」
眉毛に鋏を当てられジャキンと切る。
顎まで伸びてたカーテンが無くなり視界が広がると、これまでの自分とはまるっきり違って見えた。今日から、また違う生活を迎える。
2年前。私は今夜も渋谷松濤にあるマンションでお客が来るのを待っていた。深夜2時、部屋にある大きな鏡に映る自分は若いと思った。近づいて肌をよく見てみる。
こんなに毛穴もなくて、いい子に見えるはずなのに何故今日もお客が来ないんだろうか。OLを辞めて、こういう水っぽい商売に飛び込んだ自分の計画性の無さは、渋谷のハイな陽気で気にならない。
店長からラインが入る。
「今日は来ないと思う。寝ていいよ」
「分かりました。おつかれさまです」
まだ2月というのに、私はミニのピタピタのワンピースを着ている。肩は冷えた。制服に着替えると気持ちが入るって先輩が言ってたが、その通りだと思う。大げさな源氏名で名乗って、決められた時間で笑顔を作って接客をする。たまに「日本語話せるんですね」と外国人に間違えられて落ち込む日もあったが、そこからはよりカタコトに話した。なにより何を話したらいいか分からないし、疲れて言葉が出てこない。
Twitterを開くと、同じ業界の女の子が「本日もご予約ありがとうございました」と呟いていた。いいねを押して、部屋にある大きなパーカーを着て外に出た。
道玄坂の下りは、ラブホテルから出てくる男女と道で性を売る人が紛れていて、割り切った下心がある仲間がいるようで安心する。
自分と同じで予約が入らず、散歩でもして気を紛らわそうとしている女の子達が前を歩いていた。追いかけて話しかけてみる。
「おつかれさまですー」
「あ、あそこの店の子か。もー今日もお茶ひいたよ。」
「私もです。でもお客が来ないと安心する自分もいるんですよね」
「へー。なんで、こわいの?」
「いや、私、男の人と目を合わせられないんです」
男と同棲もしたことはあるが、基本的に男の人とずっと真顔で冷静に話すことなんてできない。根本から湧いてくる恥ずかしさで負けてしまうのだ。この症状は小学生の頃から続いている。
「この商売向いてないじゃん」
「ほんとですよね。なんでやってんだろ」
苦手を克服したい、という気持ちがあるのは確かだ。
その子はドラッグストアに化粧落としを買いに行った。メイクも見せなきゃ落とすのみ、か。
働かなくても、ずっと部屋で待機しているとお腹が空くものだ。TOHOシネマズの近くに朝4時までやっているステーキ屋があったので入る。
店員さんの顔は、ステーキをたくさん焼いたのだろう、テカテカである。私の得意プレイもローションを使うし、なんか仲間みたい。
ここにも仲間がいた、と勝手に思い込むとこういう生活を長く続けられる気がする。
300gのリブステーキを頼んだ。そんなに食べられるのかと聞かれたので、今日使わなかった愛嬌たっぷりの返事をした。おかしいな、適当に返事を流して厨房に戻る男め。もっと私に夢中になれよ。
少し気分がわるくなり、Instagramに流れてくる子犬動画を観て気持ちを落ち着かせる。私もボールを投げられて持ってくるだけで褒められたい。
焼き上がり、目の前に運ばれてきた塊の肉。生姜ソースを鉄板に流し込んでハネを楽しむ。熱い。たしか料理は音から楽しむって、ヒルナンデスで言ってたよな。普通の会社を辞めてから、情報番組が自分とは違う世界のことを紹介しているように見えた。でもわたし、こういう生活をしたかった。先の見えなさが欲しかったのだ。
新生活のお祝いのステーキとしよう。
ナイフで一切り。
その瞬間、ドアをそっと開けて入ってくるロン毛の男と目があった。店員が聞く前に、人差し指で「おひとりさま」を表してドカッと私の前に座った。不思議とその男の目から、目が離せなくなった。これは簡単に言ってしまえば一目惚れというものだろう。
目が合い続けたまま、肉をギコギコと切った。私の口元の筋肉はだらしなくなり、なんでも入る穴に化した。
「お姉さん、なに?」
「いや、あの。いや、渋谷の女です」
高円寺に住んでるのに嘘をついてしまった。
「そっか。ここのステーキ、まじでうまいよね」
「ですね。本当にクセになるっていうか、そんな味で」
「待って。生姜ソースを肉にかけた?それ、ドレッシングだよ」
「え」
「あんた、初めて来た女だな」
なんか酸味が強いと思っていたが、いやそれよりも自分が嘘をついてしまったことと、かっこいいなとか仲良くしたいなとか、食べてるところ見られてるとか思考が駆け回っておかしくなりそう。
彼のステーキも運ばれてきて、長い前髪をかき分け出来た三角形の隙間へ肉を運んでいた。その姿は、私の食欲をなくさせた。いいなと思ったのだ。
自分の前髪を触ると、この前高円寺で切ったばかりでまだ20センチほど足りない。この人になりたいと思った。
「なんでそんな見てくんの。冷えるよ、肉」
「お兄さん、明日もここ来ますか」
「えー。まぁ来るかもね」
その返事を聞いて、残っている3切れを急いで口に入れながら会計して店を出た。
「危ない、恋するところだった」
冷えた両手で顔を包んで、独り言を言った。前髪を引っ張ってよく伸びるようにしたい。いや、でもこの気持ちは、まだ会ったばかりだし認めるわけにはいかない。
深夜3時半と2分。ラインが鳴った。
「ごめん。今からフリーでお客入ったんだけどいけそう?」
店長が土下座のスタンプを連打してきた。
「あ、あと15分後なら」
この後、知らない男と目を合わせることになる。しかし緊張はいなくなっていて、明日またあの人に会えるかもしれない可能性が私を女にした。
そして伸び続ける前髪をかき分けるたびに、お客はうっとりした顔をしていた。いま私が提供している微笑みは、目の前の男を見ていない。数時間後、油くさいあのステーキ屋での逢瀬が待っている。
ロングヘアーの男との出会いで、この仕事の積極性が増してしまった。
おまじないのように髪を伸ばして、客が来なくても狂わない精神を保とう。もし切る時が来たならば、今見えてない未来がやってきてるんだろう。でもそんな未来は早く来なくていい。髪が伸びるスピードだけ、時間の前借りをさせてくれ。わたしは、あんな素敵な人と一緒になりたい。