コロナウィルス、今、国は何をすべきなのか。(そして、ちょっとだけ、どうすべきだったか)
ここまで遅れてしまったのに、踏み切ってしまった緊急事態宣言に、ぽよ的には、色々びっくりだった。ツィートには、なるべく現状の科学的な手法で調べられた「現象に関わる事実」に基づく推論だけを書き、主張はあまり書かないのだけれども、今回の日本の緊急事態宣言は、色々なことがあまりにもあんまりなので、ぽよ個人の考え方をnoteの方に書いておこうと思う。
緊急事態宣言は効果がある?
---但し、真の感染者数の増加を遅らせるためにだけ---
見かけの感染者数の増加には効かないが、ロックダウンは確かに真の感染の広がりを遅らせる効果はある。
緊急事態宣言が例え遅れたとしても、その「大義名分」があるので、
★要請を出す側
★不謹慎トロールと呼ばれる人々
★コロナ「だけ」に関してリスクゼロでないと不安で仕方ない人々
には都合がいいだろう。
感染経路は追う事は感染拡大を防ぐのに役立つのか?
---経路を明らかにする事によって感染拡大を防げるのは真の感染者数が少ない時だけ。---
確かに、感染者数が少なければ全ての感染者を網羅できるから、経路を突き止めることは意味がある。仮にそうであっても、全国民が自分の近所の感染者について把握する事は、逆効果だ。なぜなら、
感染が発覚 ⇒「症状が出ているのに出歩いていたに違いない!」
⇒集団での個人の吊るし上げ
を、無自覚なメディアが結果的に煽動してしまう国民性だからだ。
我々も、当然そのイジメ体質を知っているから多少の症状では我慢して病院にも行かずに治してしまう人が増える。
そして、うまい具合に半分以上の人は、それで重い症状も出ずに治ってしまうのが、今回のコロナウィルスなのだ。
真の感染者数は他国に比べて少なかったのか?
日本の場合、PCR 検査は、これを最も徹底的にやった国に比べて
★検査数は20分の1ぐらい
★検査の精度を仮に90%と考えて
★国境を無視した検査の全体数で誤差を計算
とすると、その誤差の中に日本の検査数が含まれてしまう。以下のグラフを見てほしい。
日本だけが世界の国々の患者数の推移において劇的に少なく、例えばアメリカで言えば、検査の誤差で変動する数値の中に日本の数値が含まれている程度の数なのだ。これはどういう意味かと言うと、
検査するかしないかの基準
の選び方によって、どんな時間的変化も作れてしまうと言うことを意味する。しかも、これは日々の(検査回数も示されないままに)検出数が100程度では現在進行形だということだ。
誤差に含まれるかどうかを検討するには、本来は検査数で比較せねばならないのだが、検査数が諸外国並みだったとしたら、日本の検出数の少なさは政策を打ち出す前に原因を明らかにしておかねばいけないほどに異常だ。
更に、日本の場合は感染の可能性が高い重症者だけを調べている事を考慮したとしても、その傾向を見ると言う点においてはこの圧倒的な数の差にはかなわない。
なので、これまでの日本の時間的な増加ペース(専門用語では時定数)を使って、今後どのように増えてゆくのかを予想してもデタラメでしかない。
検出された見かけの感染者数には、政府が「医療崩壊が心配」という「大義名分」のもとで、「日本の忖度機構」を使って検査を無自覚的に制限してきたために、政府の「心理的」傾向が表れている。例えば、
①「オリンピックをやる!」と宣言した3月14日頃から、増加ペースは僅かに緩やかになる。
②「オリンピックは延期」と決まった3月24日頃から、増加ペースは元に戻る。
というぐあいだ。この動きは、「忖度機構」(この場合は検査するかどうかを決定する人々の潜在的心理)に変化があったことを示唆している。
実際は、日本は他国よりも感染者数は多い
日本は欧米に比べて緩い外出自粛要請であったので、検査をしない事で真の感染者増加率はむしろ大きい。なぜなら、検査をしないので感染者だと知らずに歩き回る人が多いという事を意味するからだ。従って、日本は他の国に比べても真の感染者数の増加ペースは速いはずだ。
それに、国民、すなわちメディアのイジメ体質に対する警戒も、見かけの患者数を少なくするように働く。
何故なら、仮に体の具合が悪くても我慢できる程度なら感染者のレッテルを貼られて吊るし上げを受けないために、元気に歩き回って普段と変わらないことをアピールしなければいけないのだから、「我慢できる」程度の軽症の感染者が歩き回ることで、他の国に比べるて感染を広げるように働くはずだ。
従って、真の感染者数は、またも、もっとハイペースで増加していなくてはならない。
つまり、日本の感染者数は、検査しない方針とイジメ文化の両方の圧力によって、例えば米国と比べても遥かに早い時期に増加していなくてはいけないのだ。これが3月の時点なら感染者の絶対数も多かっただろう。
一日当たりの新たな感染者数の真のピークはいつか?
他の国々ではほぼ一致している増加率(約30%)に基づいて、日本におけるピークを見積もってみよう。
日本における日々の真の感染者数は、遅く見積もっても、見かけの累計感染者数が100人を超えた2月20日頃+15日、つまり日々の感染者数増のピークは3月初旬にあたりに既に過ぎていたはずということになる。
しかも、この累計感染者数が100人を越えた2月20日頃というのも、真の感染者数に基づいていないので、実際にはもっと前である可能性は高い。
しかし、たとえ真の日々の感染者数のピークが一か月前に過ぎてしまっていたとしても、なにしろ日本の検査数は誤差の中に入ってしまう程少ないので、これからの増加傾向も、検査するかどうかを決める現場の人たちの心理に左右されてどうにでもなるだろうし、オリンピックも延期されて「減らそう」というバイアスも無くなってむしろ増えてゆくだろう。
検査をした方がいいのか、しない方がいいのか?
確かに
「PCR検査の結果の如何に関わらず、患者の治療に差が出るわけではない」
という意味で、これまでのPCR 検査は優先順位が低かった。
しかし、それゆえに見かけの感染者数増加は、政策を決めるにあたり何の資料にもならない、ほとんど役に立たないデータとなってしまったのだから、緊急事態宣言の遅れは、政府が検査を渋るように心理を誘導してきた事が重要な原因の1つになっていると思う。
もちろん、実際に日本だけが何らかの理由で、本当に感染者の増加が緩やか、すなわちコロナの感染力が弱いという事もあり得るけれど、それならば、そもそもこの形での緊急事態宣言が必要な理由が大きく違う。
どちらが原因だったとしても、検査については、もはや集団としてのデータを理解するための役に立たなくなってしまったPCR検査だけを行うのではなく、今となっては抗体検査とペアで、無作為抽出した症状の出ていない人に対して行うべきだ。
抗体検査なら、現在の感染については正確さを欠くけれど、回復後も免疫が確立しているかどうかが分かる。そして、PCR検査で今現在キャリアでないかどうかが分かる。つまり、これらを合わせれば、自粛しなくとも経済活動をしてゆける人がはっきりする。それに、何よりも人々に「安心」を与えることが可能なのだ。
こうなってしまったら、日本は何をすべきか?
以下に、今日の時点での、ぽよの意見を書いておこう。(これまでどうすべきだったかは、後に書く)
こうなってしまったら、
①ランダム抽出で抗体検査とPCR検査をなるべく多くの人の協力を得て実行して、感染経験者数を推定する。
②抗体を持っている人の人口比率を考慮して、これから出てくるであろう重症者数を、外出自粛が続いた場合と自粛を中止した場合の両方について推定する。
③上記②の結果と現行医療のキャパシティ、これから増やせるキャパシティと比較検討し外出自粛要請を解除する日を割り出す。
④それとは独立に、本当に日本における感染者数と致死率が少ないという可能性を明らかにするために、コロナ感染の機序を明らかにする。特に、未だ相関しか指摘されていないBCG仮説のような説が因果的に正しいか正しくないかを明らかにする。
が重要と思う。
後の祭り
もう後の祭だが、ほんとうは、これまでどうすべきだったかと言うと、
①PCR検査を民間も含めて、大量に無料で行う。(自粛要請に伴う損失補償に比べたら小さい額だろう)また、検査とともに、軽症の人は自宅待機命令(つまりコロナ陽性だからといって病院に何度も来てはいけない)となるような臨時の法整備も必要だったろう。今の保健所がやっている電話サービスはその軽症者に充てられるべきだった。病院は明確に重症者優先にすべきだからだ。
②感染経路を明らかにするために割いていた人的リソースを全て、検査と病床を増やしたり、緊急医療のアシスタントに向け、かつそのために臨時的に必要な法律の整備をする。
③医療関係者でなくてもPCR検査を実行出来るように、臨時で「やむをえない法律」を作ること。
④プリンセス号の時点で、ロックダウン命令を出し、その間に全国の医療体制を整える。
⑤ライブハウスの感染者が出た時点で、メディアに対して、感染経路の追跡などの報道自粛命令(人数報道などは可)を発出する。日本人の忖度心理を利用して視聴率を増やそうとするメディアの活動は、迷惑行為ないしは不急不要の活動であるからだ。少なくとも足並み揃えた同じ情報の照れ流しは、不要であり1社で十分てある。従ってこれを自粛してもらう必要がある。
何故不要かと言うと、感染経路を明らかにしても、ほんの入り口が問題となる短い期間しか感染拡大を制限できないからだ。(ただし、ワクチン完成までロックダウンさせるなどという事が可能ならやってもよいかもしれない。)
動機
以上、まあ、後でなら何とでも言えるけれど、ぽよは、政府や専門家機関なら当然科学的にあらゆることを検討すると思っていて、そういう意味では政府や専門家会議を信じてた。しかし、
3月の初め頃、ある日本の旧メディアが、感染した個人の吊し上げに役立つ情報を無自覚に欲しがっているのを知って、その信頼は吹き飛んだのだけども。こんなにコロナの事を調べる気になったのも、このノートを書く気になったのも、その旧メディアのおかげだった。
そして、専門家と言えども、科学的に推論する事を拒否して、しかもそれが見かけの現象であることが明らかであっても、それを素朴に受け入れて重要な決定をしてしまうのだという事を思い知らされた。
つまり、経験のない現象が起こった時、重要な決定をするときには経験主義だけでは道を見誤るのだという事がよくわかった。
そして、科学には、理解科学と記述科学とでも言うべき2つの文化があるのだという事も、ぽよにとっては発見だった。
ここで言う記述科学というのは、見たものをなるべく写真のように似ているように模写しようとする文化の科学。
一方、ここで言う理解科学は、見たままの現象は、実は複数の本質を全て考慮することで見えてくると考える文化の科学。
理解科学では、その個々の本質を考えるときには、他の要因を削ぎ落とすため、実際の計測データには一致しないという事が起こる。
理解科学の文化に帰依しているかどうかは、それでも「真の理解」を手に入れるために、敢えて「削ぎ落とし」ができるかどうかを気にしているかどうかにかかっている。
そして、その複数の本質を一つ一つ理解して、それらの組み合わせで初めて出てくる現象を考察するという文化の科学。
例えば、感染拡大のモデルの一つであるSIRモデルは、ほぼ記述科学だ。
SIR モデルでは、時定数(増加ペース)が、観測された現象に合うように決められる。決してメカニズムから時定数パラメーターが求められるわけではない。
なので、観測された現象が、真の値と異なっている時は、その見かけに合った結果にしかならず、その裏で起こっている本当の現象とは似ても似つかない結論を出してしまうのだ。
国の重要な決定を左右する未来予測には、理解の科学による推論が不可欠なのだと思う。