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私の音楽人生について
私が音楽を始めたきっかけ、私の音楽人生を知りたいという方がおられたので、自分の音楽人生を振り返ってみたいと思い、ここに記録してみたいと思います。
幼少期
幼稚園の頃だったか1つ上の兄がエレクトーンを習っていたため、自分も母親に連れられて行っていた。
そして兄に続いて自分もエレクトーンを習うことに。
おそらく幼稚園年長の頃だったと思う。
最初は簡単なドレミファソラシドのスケールを習い、カデンツを習い…といった感じでガチガチに音楽の基礎を固めて充実させていったのかなあ、と今になって思う。
小学生時代
最初のエレクトーンがどんな機種だったのか記憶になかったが、母によると、当時兄が演奏する曲で鍵盤が足りないから新しいエレクトーンに買い替えなければならない、ということだったらしい。
そして我が家に来たエレクトーンがヤマハのD-40という機種だ。
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ネットでいろいろ調べたところ、1977年当時の定価で630,000円とのこと。多少割引があったにせよ、貨幣価値が違うこのころの63万円ってどれだけか!と思ってしまった。今63万円出せば、エレクトーンもかなりのものが買えそうだが。
で、このD-40のエレクトーンを高校時代まで兄と使っていくのだった。
兄の才能
兄は私より1年早くエレクトーンを始めたわけだが、兄が小学生の4、5年ころには既に楽譜なしで(今でいう耳コピー)をやっていた。
クリスタルキングの大都会やチャゲ&飛鳥の万里の河を耳コピーして演奏していた。
兄は万里の河をエレクトーンの演奏会で自分でアレンジして演奏しており、とても高い評価を得ていた。
後に中学高校時代にはエレクトーンフェスティバルの熊本大会で優秀賞を何度か受賞し、トロフィーと賞状をもらっている(ちなみに最優秀が1位なので、実質2位扱い)。今でも実家にあるんじゃないかな。
そんな兄の才能をすごいなあ、と思いながらも私は自分のペースで音楽を楽しんでいた。
表彰されることはほとんどなく、賞状とはほとんど無縁の私だったけど、音楽は大好きだった。
兄はエレクトーンの練習はあまりしなかったが、才能だけでやってきたのかなあ、という感じだった。
兄がもっと本気でやっていれば、今頃音楽の才能を存分に生かせた人生を送っていたんじゃないかなあ、と思ったりもした。
トランペットとのめぐり逢い
小学校の上級生になるとクラブ活動というのがあったが、私も例外なく入ることになった。
私は兄が先に入っていた器楽部に入ることとした。
兄が5年生で私が4年生。
兄はその時実はトランペットを担当していた。
ちなみに楽器は小学校のものを借りていた。
あまり記憶にないが、私は中太鼓を担当したのかな?いわゆる鼓笛隊のようなものか。
そして学年が1年上がった時、なんと、私はトランペットをやることになった。
なぜそうなったかはほとんど記憶ないが、私と兄はトランペットを担当していた。トランペットの担当が何人かいたと思ったが、今思うとやる人間が少なかったのでやれと言われてやったのかなあ、と。
ただその時私が演奏できた曲は聖者の行進とあともう一曲だったような。
それ以外の曲を吹いたことがなかったので、おそらくワンポイントリリーフ的な感じでトランペットを演奏したのかなあ、と今になって思う。
この時まさか、再び42歳になってトランペットを演奏することになるとは思ってもいなかっただろう。
フルートとのめぐり逢い
小学校5年生の時に、福岡にダイエーの店舗が新しく進出してきて(といっても、ダイエーホークスの頃よりはるかに昔)、そこで楽器教室をやっているということだったらしく、フルートをやってみないか、ということで兄と二人でフルートを習いに行った。
そしてフルートを2台購入。
その時にフルートというものを知り、レッスンの時に荒城の月を演奏した覚えがある。
フルートの先生からすれば、一応音楽の基礎ができている子供なので、教えやすかったのかなあ、と今になってはそう思う。
そこの教室で1年間習い、その後私はその経験をもとに中学校の吹奏楽部に入ってフルートを担当することとなる。
一方兄はフルートをあまり好きでなかったのか、向いていなかったのかわからないが、中学校の吹奏楽部ではトランペットを担当することとなる。
中学校で吹奏楽部に
私が小学校6年生になるときに、福岡から実家のある熊本に引っ越し、翌年に中学校に入学する。
その時に吹奏楽部に入部することになる。
私はフルートを希望。フルートは割と人気らしく、競争率が高かった覚えがある。
私は小学校5年生の時に吹いていたという経験者だったので、最初からマイ楽器で演奏。
ほかの人たちはマウスピースのみで練習をしていた。
その点ではアドバンテージがあったのでよかった。
その時兄は中学2年でトランペットを担当していた。
そのころだったか、その前の年に兄はトランペットを買ってもらっていた。
そのトランペットがこれだ。
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今現在この楽器は私が所有しているが、この楽器を兄は中高6年間、吹奏楽で演奏することとなった。
高校時代にバンドブーム
中学校3年間吹奏楽部でフルートを演奏してきたが、父親が「勉強しろ」と言った事もあり、吹奏楽部には入らなかった。
兄が吹奏楽部にばかり熱を入れていたこともあり、親としては将来のことを考えろ、と言いたかったのもあったのだろう。
私としては吹奏楽部には実のところあまり興味がなかったこともあり、それについては最初から入るつもりもなかったので、特に何とも思わなかった。
一方兄も私も高校になってからもエレクトーン教室には通っており、エレクトーンは高校2年までやっていた。
私は兄とは違ってアンサンブル部門に力を入れ、数人でグループを組んで演奏する方に特化していった。
中学時代にはエレクトーン教室にドラムセットがあったりしたので、その時に並行してドラムもかじったりしていた。
そうこうしているとエレクトーンの先生が「コンサートでドラムやってみない」と言われたので、つい勢いでやることになった。
エレクトーン教室に在籍してろい、多少ドラムをやったことのある先輩から指導を受けたりしながら、ドラムの技術を少しずつあげていった。
ただ今思えば、あの時の演奏は本当に素人に毛が生えた程度だなあ、と思い、過去の映像や音源がないのが唯一の救いだったかもしれない(笑)
そういう経緯からドラムを覚えたので、高校時代に部活とは別にクラブ活動というのがあり、軽音部というものがあったので、一応在籍することとなった。
その時中学時代の友人がバンドをやりたがっていたので、じゃあ、ということで「ドラム」を担当することとなった。
その当時、ギターやベース、ボーカルは人気があり、飽和状態?だったが、ドラムって意外に少なかった覚えがある。
で、キーボードをあまり重視しないバンド形式が多かったので、私がバンドで呼ばれるのはキーボードプレイヤーとしてよりも、むしろドラマーとして呼ばれることの方が多かった。
野球で「キャッチャーやる奴いないからやってくれるか?」というのと同じで、私は便利屋的な感じだった。
主にやったコピーバンドは
レベッカ、ブルーハーツ、爆風スランプ、1986オメガトライブ、スティング、T.REX
あたりだったかなあ。
ドラムとキーボードの割合は9:1くらいだったかな。
鍵盤楽器を長年やってきたけどここではあまり活かせてなかった。
大学時代にベース、ギターを覚える
山口県内の大学に入学してから音楽活動を続けていきたいと思っていたので、大学時代の友人やアパートの隣室の人がアコースティックギターを演奏していたので「ギターをちょっと覚えてみようか」と思い、モーリスのエレアコギターを購入。
コードを覚えてギターの弾き語りの基礎を学んだ。
その後その勢いでベースも購入する。
大学時代は1,2年次フォークソングサークルに入って活動していたが、後述のバンド活動や作曲活動に重きを置くためにサークル活動は辞め、自分のバンド活動1本に絞った。
エレクトーン教室時代の仲間でバンドを組むことになるのだが、ベース担当がいないことから、また補欠要員ということで私がベースを担当することとなった。
1990年代のカシオペア、スクエアをやるフュージョンバンドを結成。
その時ベースのチョッパーなるものを覚えた。
弦楽器経験が少ない私はかなり練習しないといけないなあ、と思って必死にそれらしく演奏できるように頑張った。
その時にフュージョンバンドって面白いなあ、と下手ながらも思い「自分のオリジナル曲を作ろう」と一念発起し、コルグの01W/FDというシンセサイザーを購入。
そのシンセサイザーで作曲をして10曲近く作る。
その曲をこのバンドでやってみようと思った。
短い人生、自分のオリジナル曲を何曲か作って演奏してもばち当たらないだろう、と思い、無謀にもオリジナル曲を作り、コンサートなどで披露する。
このバンドが一番自分を成長させてくれたのかなあ、と思っている。
特にこのバンドでのキーボード、ドラム担当はもともとエレクトーン出身者で同じエレクトーン教室に通っていた仲間だったので、打ち解けるのに時間はかからなかった。
キーボード担当は天才的なセンスの持ち主で、絶妙なコードワークを駆使したりするプレイヤーである。この彼からシンセサイザーのことを教えてもらい、作った曲をフロッピーディスクに入れて郵送し、シンセサイザーで確認するということをやり、フロッピーバンドと自分たちのことを揶揄していた(笑)インターネットがない時代だったが、それはそれで楽しかった思い出である。
ドラム担当は努力型で、とにかくドラムが大好き、ドラムの研究に余念がなく、どんなジャンルの楽曲もしっかりこなす努力型のプレイヤー。
特にこの二人のセンスは特に秀逸だった。
サックス担当はもともと吹奏楽部からの転身。その時サックスいいなあ、俺もあんなに吹けたらなあ、と思ってあこがれていた。
ギター担当は洋楽のロックが大好き。自身の姉妹は私と同じエレクトーン教室に通っており、音楽一家。ちなみに彼の実家にはドラムセットがあり、そこでバンド練習したこともある。
このバンドメンバーに巡り合えたのもほかならぬエレクトーン教室の先生のおかげだと思っており、とても感謝している。
私にとって財産である。
生涯の師との出会い
私はエレクトーンを5歳(幼稚園)から17歳(高校2年)まで習ってきたが、エレクトーンの先生は自分にとって生涯の師といえる。
特に小学校6年生から習った先生は生涯の師という存在で熊本に帰省した時に会うこともあるくらいだ。
幼少期から小学5年生までは福岡のエレクトーン教室でエレクトーンを習っており、その時の先生が私の音楽人生の基礎を築いてもらったことはとても感謝している。
そして、熊本に引っ越す際も、次の先生を紹介してくれたのはその福岡のエレクトーンの教室の先生であった。
私は熊本市内の教室に通うこととなった。
本来なら、私は熊本市外に住んでいるので、そこの音楽教室に通えば交通費もかからずに済むものを、あえて紹介のあった音楽教室に通うこととなった。
そこで生涯の師と出会うわけである。
その先生はとても気さくな方で、今思えば幅広い見識を持った音楽家だったのかなあ、と思った。
その先生からドラムを教わったり、ライブでボーカルやってみない?と言われてボーカルやってみたり、ルパンの曲でフルートをやってみたり、エレクトーンだけではなく、いろんな楽器を取り入れてアンサンブル活動に力を入れてクラスコンサートを充実させていった。
先生はいろんな人脈から、ドラム、サックス、ギター、ボーカルをやっている子を呼んでコンサートをより充実させてものに仕上げて言ったりもした。
気づけばエレクトーン教室のアンサンブルを超え、普通のバンドのライブ並みに盛り上がったコンサートを作っていったりもした。
そのおかげでいろんな楽器に巡り合い、いろんな人と知り合い、いろんなジャンルの音楽を知ることになり、自分自身の音楽の幅が広がった気がしてきた。
サックスを始めたきっかけ
大人になって子育て等忙しい日々に追われる中、インターネットが徐々に普及しだしたころ、36歳になっていた。
その時、いろんなホームページを見ていたら、安いサックス等が並んでいる。
29800円・・・・うん、安いな。編曲の参考になるかもしれないからちょっと買ってみて試してみようか。
そんな軽い気持ちからソプラノサックスを購入。
とりあえず吹いてみたら「ああ、音は出るなあ。」
ただ、Bb管という未知の世界。
ドレミを吹いてもシbドレと音が出る。
絶対音感から相対音感へ変更しなければならないという越えなければいけない壁をここで痛感する。
そして徐々にその壁を乗り越えて演奏できるようになってくる。
そして無謀にも仲のいい職場の先輩の結婚式で演奏してしまう。
とりあえず演奏できたのでまあいいや、と。
その後、調子に乗って同期の結婚式でも演奏してしまう。
まあ一応よかったと。
今思えばあの安いサックスで良く演奏したな、と怖いもの知らずの自分に震えた(笑)
その後「サックス面白いなあ。本格的にやってみよう」と思って、安いサックスはバンドのキーボードプレイヤーにあげて、カドソンのソプラノサックスを購入。その後、アイゼンのテナーサックス、アルトサックスを購入。
(その間にアンティグアのテナー、ヤマハのアルトを所有していたことがあったが、あまり重要ではないのでその点については省略する。)
Bb管に慣れてきたのでテナーサックスを購入、その後無謀にもEb管のアルトサックスを購入したわけだが、Eb管は想像以上に難しかった。
長年の絶対音感から相対音感へ変換しろって、ピアノ経験者が吹奏楽でBb管演奏するのって大変だったろうなあと思った。
ちなみにフルートはC管だから普通に譜面通りの音が出るので違和感なく演奏できていた。
とりあえずできる曲を演奏しよう、ということで、最初は自分のオリジナル曲を演奏して、次に太陽にほえろを演奏した。この曲は短い曲で格好いい曲なので演奏するにはうってつけだった。
そしてテナーを買ったときに今井美樹の曲や杏里の曲を演奏した。
その時に演奏した曲って今でも譜面なしでさらっと演奏できるので、困ったときのレパートリーとしては秀逸である。
最初は編曲の研究のためにと思っていったサックスだったが、演奏するうちにいろんな曲を楽しめるなあ、ということで演奏に熱が入り、歌謡曲を中心にたくさんのレパートリーを演奏するようになってきたのである。
サックスといえばジャズであり、ジャズやフュージョンへの憧れがあったものの、いろんな曲を演奏することによって、別にジャズにこだわらなくてもいいや、と曲数が増えて言って今に至るのである。
トランペットを本格的に演奏することになる
42歳の時、父親が72歳で他界した。
その時実家の荷物の整理などを兄、弟、母とやっていたところ、兄が使っていたトランペットが倉庫の中から出てきた。
チューニング感は抜けず、ピストンも固まっていた状態だった。
その時に「これ調整したらいけるかなあ?」と思い、父親の死後「人生で後悔したくない。もっとやれることがあるかも」とトランペットにチャレンジすることをその時決意。
兄に「トランペットもらっていい?」と聞くと「いいよ。」と快諾。
それで自宅に持ち帰り、メンテナンス、リペアなど済ませて、いざトランペットの練習をすることに。
小学校5年生の時になんちゃってでしか演奏したことがなかったので、当然ながらまともな音は出ない。
マウスピースの練習から地道にやり、1オクターブのスケールを練習。
金管楽器って思いのほか難しいんだな、とトランペットをやり始めたことを若干後悔する。
しかし、やってやれないはずはない、と自分を奮い立たせ、サックスの練習とトランペットの練習の比率を9:1にするくらい、トランペットの練習に力を注いだ。
ここから私の二刀流生活が始まる。
トランペットって管のつくりはあれだけ簡素で部品も少ないのに、音を出すのは鬼のように難しい。
もし誰かが「サックスかトランペット始めようと思うんだけど、どっちがいいかな?」って言ってきたら100%「サックスにしなさい」と言う。それくらいトランペットは難しいなあと。
乱暴な言い方をすると、サックスは縦笛の延長。それで何とか演奏はできる。
サックスは「人間が1オクターブと2オクターブ目を同じ縦笛の運指でサポートしてあげるぜ」という仕組み。
トランペットは「管のつくりが簡単でピストン3つついているからそれで何とか倍音で12個の音を操れよ。」という仕組み。
そして苦労しながら演奏を積み重ねて今に至るのである。
YOUTUBE活動は楽しい
YOUTUBEという動画配信をいつごろから見始めたか覚えていないが、2017年ころ、
●自分の音楽の集大成を
●何か残せる演奏記録を
と思い、試しに録音や録画をしてアップしてみる。
うん、まあこんなもんかと。
そうしているうちにコロナウイルスが流行り始め、世はリモートブームも相まって猫も杓子もYOUTUBERになる時代が到来。
私は相変わらず演奏記録を残す生活をしていたところ、いろんな人からのコメントが増えるようになってきた。
そこでいろんなサックス演奏者やトランペット演奏者と知り合い、登録者や動画視聴者が増えていったわけである。
また機材も多少グレードアップして音質も向上させることができた。
自分の音楽人生の集大成をここで表現し、今まで出会うことのなかった人からのインスピレーションを受け、さらに自分の演奏能力が向上したのかな、と思った。YOUTUBEという媒体に感謝。
いろんな演奏を見たり聴いたりすることは自分のスキルを上げるうえでとても重要なんだなあと、YOUTUBEの動画を見て改めて思った。
世の中のプロアマ問わずミュージシャンたちは様々であり、自分の想像も及ばないくらいうまい人たちは限りなくいるが、自分らしく、たくさん演奏して、たくさんの人に聴いてもらえたら幸せだなあと思います。