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誰かのこころで生き続けるってほんとなんだね

こんにちは

1年前の5月26日に投稿していましたものです。

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最近心の整理がついたので、気持ちを忘れないようにここに書き留めておこうと思う。


4月の上旬に祖父が亡くなった。
ずっと体調が悪くて入退院を繰り返していたものの、祖父の住むところと私のひとり暮らしの場所は離れているため、お見舞いに行けずじまいだった。


私の祖父は一言でいうと破天荒。お酒が大好きで今だから言えるが飲酒運転は当たり前だった。蜂に刺されてもケロッとしているような祖父だった。



病棟転換の際、祖母が祖父に桜が咲いていることを伝えると「それどころじゃない」と言ったのが最後の言葉だったらしい。
さすがに呆れた。



若い頃の写真を見ると、ブイブイいわせている雰囲気を感じた。そりゃあんな可愛い祖母を捕まえるだろうな、と昔納得したのを覚えている。私の記憶の中の祖父も、ダンベルをもってムキムキに鍛えている姿がほとんどだ。


通夜・葬儀の準備、当日や火葬、お客様の対応を通して今まで感じたことの無いぐちゃぐちゃな感情になった。悲しさや寂しさだけでなく、面白い思い出話を聞いて楽しくなったり、温かい気持ちになったりと、完全に迷子状態。



感情がぐちゃぐちゃになったエピソードのひとつとして、遺影の話をしたい。祖父と祖母は2人で一緒に遺影の写真を決めていたようで、仏壇の中に祖父が決めた遺影が入っていた。どんな写真かな?と覗いてみると、まさかの20年前の証明写真だった。さすがに吹き出して笑った。


20年前の写真を遺影にするか?と家族会議が行われた。祖父の意向では背景の色も変えてほしくないとの事だった。あまりにも遺影には出来なさそうな月日のたった写真と謎の背景。結局家族は祖父が選んだ写真をそのまま遺影とした。


完成した遺影をみるとどうしても笑ってしまう。笑い事じゃないのに。それと同時に涙が出てくる。家族みんな頑固な祖父の性格を知った上で仕方なく祖父の選んだ写真にしたのだ。


遺影をみると
・祖父が変わり者だということ
・家族が祖父の性格を知った上で遺影写真をそのままにしてあげたこと
・祖父との楽しかった思い出
これが一気に襲ってくるのだ。
思い出すだけでも訳の分からない感情になる。
不思議だ。



祖父は亡くなる1・2年前から私にずっと「勉強しっかりしろよ!」と話してくれていた。
就職活動や高校受験を控えたきょうだいには言わず、大学1・2年生だった私にだけかけてくれていたのだ。いや、言葉かける相手間違ってるよ!と思いながら、何故祖父は私だけにその言葉をかけつづけてくれていたのか今でも考え続けている。


ただ単に祖父が私をきょうだいの誰かと間違えていたのかもしれないし、私がきょうだいの中で1番手のかかり、勉強が苦手だということを私の父から聞いていたからかもしれない。


祖父が昔思うように勉強できず、苦しい思いをしたからかもしれない。祖父がその言葉を私にだけかけてくれていた真理は誰にも分からないし、誰も教えてくれない。けれど、これからもずっと私のやるべきことは「勉強をすること」であることに間違いはない。祖父のことを思い出すとやる気が溢れてくる。






祖父が亡くなったあと、父と2人で車に乗る機会があった。私と父の会話は何気ない話ばかりだが、祖父が亡くなった週には少し気まずい空気が流れていた。


祖父が遺したボロい車を走らせながら、音楽もかけずにただ無言だけが続くなんとも言えない時間だった。
気まずさに負けたのか、急に父がぼそっと「俺の選択が間違ってなかったらもっと生きてたかもしれんな」と言った。


父は祖父が入院している頃からずっと祖父に付き添っていた。知らない間に祖父の命がかかった重たい選択を何度もしてきていたようだ。それを知っているからこそその場ですぐ発することのできる軽い励ましなんかかける気にはならなかった。



私は、世の中のことは全てなるようになっていると考えている。様々な選択をしたのは父であったと思うが、その選択はなるようになっていて、全て運命だったんだと思う。むしろ、誰かが決定しないといけない大きな選択をきちんとした父は偉大だ。


また、私たち人間はどうしようもないことにも、何かと責任や理由を作って結果を受け入れたり、正当化しようとする。理由も責任もないことはこの世の中には溢れていて、それを受け入れるために、父にとっては自分に責任を持たせることで、祖父の死の理由を作ろうとしているのだろう。責任も理由もないことを父が1人で背負い込むことはない。


その場でこの思いを父に伝えたかったのだけど、口下手で自分の気持ちを言葉にするのが苦手な私は意味の分からない事しか言えなかった。ここにまとめることで消化すると共に、気が向いたら父にあの時伝えたかったんだよね、と言ってみようと思う。








家族みんなが最後まで祖父に振り回されていた。そんなよく言えば人を動かす力が祖父のよさだったのかもしれない。



祖父が可愛がっていた燕は今年も、祖父母宅の納屋に巣を作り、子育てを始めた。祖父が遠くに行ったことで農薬をまく人がいなくなり、祖母が育てるキャベツの畑には、例年の3倍ほどのモンシロチョウが飛んでいる。大量のモンシロチョウに囲まれてキャベツを収穫する祖母はいつもの3倍可愛い。私は祖父母の家に行くと必ずお仏壇に手を合わせ、お仏壇にむかって話しかけるようになった。遺影はいつもムスッとした表情で私を見てくれる。



変わったもの、変わらないもの全て祖父が生きていた証なのだ。寂しいようで寂しくない。いや、やっぱり寂しい。


おじいちゃんお酒はほどほどにして見守っててね!


祖父が亡くなった次の日に撮った桜
自然に溢れた祖父の大好きなまち


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