アメリカの高校生は、多様な社会でどう生きているのか?
昔、高校か大学受験をした時、社会科の試験で、アメリカ社会を象徴する言葉を6字で書け、という問いが出された記憶がある。あれから数十年。先日、ニューヨークのガイドブックを読んでいて、久しぶりに「人種のるつぼ」という言葉が目に飛び込んできて、新鮮な気持ちになった。
人種のるつぼとは、多様な人種や民族による多様な文化が社会で溶け合い、新しい文化が形成していく社会を指すとされている。それに対して社会の多様性を表す言い方として「サラダボウル」という言葉がある。それぞれの食材が溶け合うのではなく、それぞれの良さを共存しようという考えだ。
多様な人種や民族、多様な文化、多様な価値観・・・
アメリカに暮らすと、事あるごとに「多様な・・・」を感じる。特にアメリカの首都という土地柄、世界中から人が集まり、人種も民族も文化もいろいろだが、ある種の秩序を感じる。でも、この多様な文化は本当に溶け合っているのだろうか。人々は共存しているのだろうか。だとしたら、どうやって?次第に、こうした疑問が浮かぶようになってきた。
アメリカの高校生は、多様な社会の中でどう生きているのか。私が教えている学校では、教室を見渡しても、一人として同じバックグランドを持った生徒はいない。学校という公共の場では、いわゆる一般的なアメリカの秩序や文化の中で生活している。しかし、一旦家に帰ると、彼らの生活はまちまちだ。家庭では話す言語も食事も生活習慣も異なる。勉強に対する考え方、やり方、モチベーションも驚くほど違う。親やその祖先から引き継いだ文化を色濃く反映しているのだ。高校生は、家の内と外との違いに気づき、様々な矛盾や違和感を覚え、苦悩する。その苦悩をいろいろな形で表現している。
ある高校では選択科目にジャーナリズムがあるが、授業の一環として雑誌や学校新聞を発行している。その中に、継続して自分のアイデンティティを模索するコラムが掲載されている。そこで気づいたのは、「人種のるつぼ」か「サラダボウル」かはさておき、個々の生徒が、他の人々に埋もれたり、染まったり、目を背けたりせず、自分自身を正面から見つめ、考え、言葉を紡ぎ出していることだ。これはかなり苦しい作業であるに違いない。
混沌とした環境の中で、心が不安定になりながらも、多くの生徒がアイデンティティ・クライシスに陥らずに済むのは、アイデンティティにまつわる鬱屈した悩みを言葉で表現させようとする学校教育の存在も大きいのではないかと、日本の学校教育を受けてきた私は思うようになった。アメリカではEnglishの授業で、「自分は一体、なにものか。」を自身に問いかける訓練を折に触れて行っている。頭を整理するためには、文章を書き、発表することが必要である。答えのない問いかけを繰り返し行っている。そこに国籍や民族や人種は関係ない。そして、生徒一人一人が「アメリカの多様性」について、自分なりの考えを持つようになる。これがまさに、多様な社会の中で生きのびる術なのかもしれない。そして、アメリカ人の自己肯定感の強さも、ここから来ているのかもしれない。
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