20年もののいぼ痔を取った話

「病垂れ」に「寺」と書いて「痔」。痔を患えば、他人に口外することのないまま、ついぞ寺(墓=死)までひっそりともっていく病だから「痔」という漢字なのだ。と思っていたが、少し違うようだ。

「寺」は「峙つ(そばだつ)」を表し、「じっととどまる」「動かない」を意味するらしい。肛門付近に「とどまる」病なので「痔」という漢字なのだそうだ。大辞林で「そばだつ」を引くと、山などが他より一際高くそびえる、という意味だとしていた。なるほど。いぼ痔は、まさに尻という名の山脈に峙つ山の頂といえよう。

この投稿は以下、消化器官の終着駅、肛門の病、痔について私の体験談を記している。病気の話ではあるが、苦手な人は、ここで、この投稿を閉じ、それぞれの日常生活に戻ってほしい。

さて、ネットで「痔 有名人」と検索すると、夏目漱石や松尾芭蕉、ナポレオンも痔であったらしいことがわかった。痔は現在、日本人の三分の一が患っている病気とも。国民病である。自分が生きてきた証(痔だったことも含めて)を活字に残すことが出来た偉人だけでなく、きっと多くの人々が昔から痔を煩い悩みながら生きてきたんだ。

それでは私のしがない痔の話。お聞きください(長いです)。

●第一章「その門を叩け」

私が痔になったのは20年余り前のことだった。人類が滅亡するとの「大予言」が外れ、日本では小渕恵三首相が体調を崩して緊急入院、ロシアではプーチン氏が大統領に就任した頃、私は人知れず、いぼ痔を発症した。高校受験のストレスと便秘体質が肛門を圧迫した末の悲劇だった。

「この成績ならどこの高校でも行けますよ」。合気道で日本チャンピオン(だったかな?とにかく強い)になったことがある筋骨隆々の担任の先生が、三者面談で言った言葉を今でも覚えている。通知表はいわゆる「オール5」。その言葉がとても嬉しかった。色々悩んだ末、高校大学一貫の私立校を受験することに決め、ますます勉強に励んだ。学校や塾、自宅の自室でひたすら机に向かい勉強漬けの毎日を過ごしていた。疲れた時は志望校のパンフレットをチラチラ眺め、キラキラした学園ライフを夢見ては、うっとりしていた。

しかし現実はシビアだ。ある日、自宅のトイレで用を済ませたとき、肛門にこれまでにない強烈な違和感と内臓がひっくり返るような不快感を感じ思わず顔を歪めた。違和感をたどると、小指ほどの大きさのイボが肛門に挟まっていた。いやいやいやいや、こんな所に肉片が挟まるのおかしくないですか?嘘でしょ?冗談きついって。何度もいぼを確認し、私は狼狽した。

いぼ痔とは、座る時間の増加などで肛門に負担がかかり、直腸のクッション部分が伸びたり広がったりして肛門から飛び出したものらしい。若干15の若造には受け止めきれない現実。肛門に注入するタイプの市販薬もあまり効果がなく、志望校には何とか合格したが、それと同時に、私は肛門に秘密を持つ女になってしまった。

その日から20年以上、真っ黒に日焼けし笑うと歯だけが白かった高校時代(ソフトボールを毎日していた)も、司法試験に向け猛勉強するもバーンアウトし風に揺られて飛ばされる風船のように呆けていた大学時代(一応卒業した)も、初めて女性差別を体験して腰を抜かしそうにった社会人一年目(非正規雇用の大変さを身に染みて感じた)も、泣いたり笑ったり、恋人ができたり別れたり、さまざまなライフイベントを私はいつも痔と一緒に過ごしてきた。いわば人生のパートナーだ。痔はいつもそこに峙っていた。

ただ齢35。電車で往復7時間の出張(遠い)をしたり、締め切りが迫る極度に緊張を伴う仕事(辛い)を任されたり、最近、ストレスがかかる激務が重なったせいか、痔が悪化。それまで、峙つ(出てくる)だけだったパートナーが、地割れを起こしたり(切れた)、より高い峰を目指そうとしたり(大きくなった)、仲間を増やしたり(子どもみたいな小さい二つ目のいぼが出来たこともあった)、豹変した姿を見せるようになり、トイレに行く度に、「あなたはそんな人じゃなかった」と、泣いた。このまま、この人(痔)と一緒にいたら、自分の身が持たないのではないかと思うようになってきた。

そして、老後への一抹の不安もよぎる。この先、歳を取り、白髪が増え、骨や筋肉が弱り、体が思うように動かせなくなって他人の介護を必要とするとき、誰が私のエベレストを押し戻してくれるのか…。治すなら早いほうがいいのではないか。私は、パートナー(痔)と決別すべく、「近く 肛門科」で検索し、歩いて15分程度の病院を見つけ、意を決してその門を叩いた。

●第二章「事件は肛門科で起きている」

名古屋市内のビルの一室。外に看板は無い。果たして本当にこの場所に肛門科があるのか。不安になりながらエレベーターで目的の階まで上がると、白を基調にした清潔感のある肛門科の出入口にたどり着いた。少し安堵しながらドアを抜けるとすぐ受付があった。予約したことを告げ、受付で問診票を受け取り、待合室のソファに腰を下ろしたとき、衝撃が走った。これまで体験したこと無いほどの柔らかさのソファだった。まるでつきたての餅のような感触。それは痔を患った患者への配慮。優しさだ。受付には次々に患者がやってくる。なるほど、繁盛している肛門科のようだ。

問診票に名前や住所、症状を記入し始めた時、ふと15の秋を思い出した。青いプラスチックのバインダーに挟まれた真っ白な問診票は、いつから患っていますか?どんな症状ですか?などと、これまで誰にも打ち明けてこなかった私と痔の秘密の関係に、ぐいぐいと首を突っ込んでくる。走馬灯のように蘇る痔との20年間…。ちょっとセンチメンタルな気持ちになりがら「20年前」「小指大のイボが脱出」などと、ペンを走らせた。

問診票への記入を終えると暫くしてスタッフに呼ばれた。個室に入ると、先程の柔らかなソファではなく、一般的な丸椅子に座るよう促された。対面した看護師は、一通り問診票に書いてあることを確認した後、淡々とした表情で壁に貼ってある絵を指し「こういう体制で診察します」と述べた。

あ、こんな所に絵が貼ってあったんだと、右斜め上のその絵を見たとき、私は戦慄した。そこには、ズボンとパンツを膝までずらして体育座りのまま背中方向に転がった人の絵があった。ギョッとした。和式便所で用をたすときの格好をそのまま90度傾けたような不自然な体制を、その絵の人は無表情でやっていた。こんなフリー素材あるんだと感心しつつも、恥ずかしさで自尊心が瓦解していくのが分かった。高鳴る鼓動、泳ぐ視線、滲み出る脇汗。言葉を失い、餌を待つ鯉のように口をパクパクしていると、「それではもう少ししたら院長の診察ですので、もうしばらく待合室でお待ち下さい」と、看護師に心理的に突き放され、部屋を追い出された。

冷たい。寒い。寂しい。孤独だ。診察とはこんなに孤独なものなのか。あの看護師さんは毎日毎日何人もの患者に「こういう体制で診察します」って、言ってるんだろうなぁ。診察前に「例の体制」を告げる一応の優しさ。でも、私は、今日初めてあの絵を見たのよ。私にはスタートだったの、あなたにはゴールでも。何も言えなくて…35歳、初夏。

待合室に戻るとソファに倒れ込むように座った。ソファは相変わらず柔らかかったけど、私は疲れきっていた。気分は熱闘を終え、燃え尽き、灰になったジョー。走馬灯の時代が懐かしい。私に明日はあるのか…。

待合室に戻って10分ほど経っただろうか。私は、あん畜生の羞恥心を振り切り、あの体制での診察と向き合おうと、なんとか自分自身を説得し、鼓舞した。いや、鼓舞しすぎたのかもしれない。「29番の方〜、お待たせしました」と呼ばれたときには「わての痔見たいなら見せたろやないかい。肛門を他人に見せるくらい、どやねん。京都人なめたらあかんで(私の痔を見たいなら見せてあげよう。肛門を他人に見せるぐらい、何のことはない平気な事だ。京都出身の意地がある)」と、勝手に京都を背負い込み勇んで診察室へと入っていった。

そして例の体制になり、尻の穴を診察された。私は診察室の天井の蛍光灯の辺りの虚空を見つめていた。無表情だった。さきほどのあの絵はまさに達観した患者の様を描いていたのだ。妙に納得した。院長は何かの機械をカチャカチャと肛門に2回くらい入れたり出したりして、「ありますね。いぼ痔ですね」と言った。知ってた。分かってた。あなたの「いぼ痔ですね」をもらうため、さっきの10分間で気持ちもつくってきたんだ。

こうして私のいぼ痔は初めて、医師と共有され、医学的な治療対象として発見された。いぼ痔が秘め事ではなくなったことにより、気持ちが楽になった気がした。

尻の穴の診察を終え、ズボンを履いて丸椅子に座ることを許された私に、院長は「20年も一緒ということで、急いで手術する必要はないと思います」と言った。しかし老後が心配な私の決断は揺るがず、日帰り手術をする事に決めた。これは、私の人生がかかった必要で急を要する大手術なのだ。大きなイボなのでジオン注射(痔を切らずに注射をして固める手術)ではなく、切除が必要らしい。費用は3万円弱。私はその日に血液検査などを済ませ、手術日も決め、手術日以降2日間、仕事を休むことにした。

●第三章「午前4時の訪問者」

手術当日、午前4時に目が覚めた。いつもの起床は、早くても7時だがこの日は違った。猛烈な便意のためだ。手術前日の午後9時に飲んでと言われていた薬を飲んでいたせいか、お腹がキュルキュルと痛み、3回ほどトイレに駆け込んだ。効きがすごい。手術前なのに、もぅ、ぐったりした。それでも、術後の自分のために、いそいそと掃除・洗濯・買い物などを済ませ、時間通り、12時半に病院に行った。

この日は、ほぼ待ち時間なしで着々と手術の準備が進められた。まず血圧と酸素濃度を測り、私は初めて手術用のガウンに着替え、おむつを着用した。座薬を2錠入れられダメ押しの排便。私の腸は朝四時に便を出し切っていたため、座薬しか出てこなかったが、看護師に「最後に出たものを確認します」といわれ、「え?流さないんですか?」と2回聞いた。「流さないで」と言われた。このころには、もう、他人に排便を見られても、お尻を見られても、何も感じなかった。点滴を打たれて、いざ手術台へと向かった。

手術台にうつ伏せになり、私の尻は、看護師らによってテキパキとテープで固定され、尾骶骨のあたりに冷却スプレーのような麻酔を吹き付けられ、いざ、いぼの摘出かと思われた時、院長の「思ってたより大きな」「麻酔増やそう」との言葉が聞こえた。先程までのスピーディな流れが一変、「思ってたより大きいので麻酔増やします」と、何も断れない私に一応、その事態が報告され、一旦5分ほどのブレイクタイム。私は尻の穴をテープで固定されたまま待った。その後、「眠くなる薬入れますね」という麻酔科医の言葉に「あ、はい」と返事をし、「麻酔って効くのかしら。手術初めてだし、麻酔が効きにくい体質だから、効かないときはどうすれば良いのかしら」と思考した直後、気を失い、気が付いたら「手術終わりました」と看護師にいわれて手術台を後にした。手術前に外した眼鏡もいつの間にかちゃんとかけ直してもらっていた。私で約400回目のいぼ痔摘出手術だったらしい。

1時間ほど休憩して立てるようになったら帰宅してもらう予定だと看護師に言われた。私は、西加奈子さんの小説を休憩中に読むのを楽しみにしていた。左手に点滴、右手にナースコールに繋がった紐を付けられた状態で、これは読めないかもと思いつつ一応「(休憩中)本読んで良いですか?」と、看護師に尋ねると「ダメです。安静にしてください」と言われ、あえなく撃沈。帰ってから読むことにした。

帰るまでの1時間半くらいは、院内でかかっていた綾香や秦基博、Mr.Childrenなどのインストゥルメンタルバージョンの音楽を聞くとも無しに聞いていた。やはり意識が朦朧としていたのか、あっという間に時間が過ぎた。カーテン越しに「流さずにそのままにしてください」「そのままですか…」と、これから手術を受ける人と看護師とのやりとりが聞こえてきて、やっぱり、そうですよね、わかりますその気持ち、と名も知らぬ患者さんと何かを共有した。「ポットさーん開けますよ」と、今度は私が呼びかけられた。フラつかずに立てるようになったかを看護師に確認され、ようやく起き上がることを許された。

服を着替え、院長から手術の様子の説明を受けた。親指大のいぼが取れ、肛門も今のところ無事な様子だということ、今日は風呂に入らず、これから二週間は安静にせよとのことだった。摘出した、いぼを見せてもらった(できれば見たいと、お願いした)。銀のトレーの中にあったのは、萎んだ風船の様な1センチ程度の赤黒い肉片であった。院長によるといぼは水風船のように体液が溜まって膨らむのだそうだ。パチンコ玉のように丸いいぼを想像していた私は少しがっかりした。

そのまま歩いて午後四時過ぎに帰宅。今日一日はゴロゴロして過ごすべしとの院長の忠告を忠実に守り、ベッドの上でゴロゴロしていた。そう言えばお昼ご飯を食べてなかったので、お腹が空いたと、野菜たっぷり味噌汁とご飯、納豆を食べていた時、再びお腹がキュルキュルし出した。術前の下剤の影響か。

痔の手術をしたことがある人は少ないと思うが、歯医者に行ったことがある人は多いと思う。歯医者で歯茎に麻酔を打つと、治療後、唇まで感覚が麻痺して、口の中に含んだ水がピューッと飛び出す経験をしたことがあるだろう。それは肛門でも同じことがおこるのだ。おむつを履かされた意味が分かった。

●最終章「お尻守」

灯台が船舶の航路標識としての役割を果たすよう維持管理する「灯台守(とうだいもり)」という職業が2006年まであったそうな。「イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑」にそうあった。灯台守は、船に遠近や所在、潮流の激しい難所などの危険箇所を教え、灯台の灯の点灯、消灯、気象観測などを行う、海の守り人だ。

なので、ゆっくり座る、ゆっくり歩く、排便は3分以内など、肛門への負担を出来る限り最小限に保ち生きる人を「お尻守(おしりもり)」と呼ぶことにしたい。無論、これは私の造語だ。

かの有名な殺し屋ゴルゴ13ことデューク東郷は、「俺の後ろに音もたてずに立つようなまねをするな…おれはうしろに立たれるだけでもいやなのでね...」といったそうな。その気持ちすごく分かる。お尻に爆弾を抱えていると、歩道を歩いているときに背後から猛スピードでくる自転車や早足で歩く人がとても怖い。私は東郷のような目付きで背後を確認しながら、抜き足差し足で歩いている。不審者である。

肛門の傷が完治するまで2ヶ月はかかるらしい。私の場合は術後、まだ数日しか経っておらずこの先が思いやられる。二週間ほどジョギングなどの軽い運動もしてはいけないといわれていて、つらい。しかし、いぼが無くなったのは、思ってた以上に快適で、本当にとって良かった。

これからは傷を早く治し、痔を再発させないよう食事にも気をつけ、愛すべき尻を守り続ける所存だ。

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