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20200920 “優しさ”というコンテンツ

にちようび。

にちようびだけれど職場に行きますよ。なぜかというと僕はエライからです。いや、嘘ですごめんなさい。お金とかほぼ発生しないけれど、かと言って行かなければ困る人間が確実に存在してしまうので行かざるを得ないのです。なんか人質をとって労働させてくるの、ホントにダメだよね。これだから悪なんだよな労働は‥‥。

職場にいなければならない用事は午前中で終わったけれど、残って進めておかなければならない仕事を進める。これも別になんの対価ももらえないんだけれど、かといってやらないと確実に困る人間が出てしまうのでやる。なんかこんなのばっかりだな‥‥こうして“困る人が出るから”っていろいろやったりしているけれど、いざ僕がその“困る人”の側になったときに、僕は誰かに助けてもらえるんだろうか?さんざん都合よく使われて、挙げ句の果てに助けてもらえないような気がしてならない。

“情けは人のためならず”なんて言って、“善行は巡り巡って返ってくる“なんて教えられるけど、実際ホントにそうなのかな?善行を返ってくるのって、善行を積んだ相手がある程度のモラルを備えていた場合に限定されない?僕は対しておせっかいな人間でもないから、基本的には助けを求められたときだけ手伝ったり助けたりしているんだけれど、ここ最近は多忙な人間になってしまっているせいで気を使ってくれている人が多いのか、あまり頼まれごとをされていない気がする。この状況で頼みごとを、それも僕の仕事か?みたいな部分で頼みごとをしてくる人に対して善行を積んだとして、それが返ってくることにどれほど期待していいんだろう?そもそも手一杯な人間に対して領域外のタスクをぶん投げてくる人間に、どれほどのモラルを期待していいんだろう?

優しい人になりたいと思っていたし、人の役に立ちたいとも思っていたけれど、その生き方の虚しさみたいなのを最近よく感じてしまう。優しくなろうとすればするほど、人の役に立とうとすればするほど、“優しさ“というコンテンツに塗りつぶされていく感じがして。その処世術で生きている限り、“優しさ”というコンテンツしか愛されないような気がして。誰と関わるにも“優しさ”を張り巡らせた警戒態勢で過ごして、いつしかそれに疲れていく。ただ、“優しさ”に全体重を預けて人間関係を作ってきたから、それを張り巡らせないと人と関われなくなっていく。そうやってどんどん人に会いたくなくなっていく。

そりゃあ自分を支えてきたメインコンテンツを稼働停止させたら、ユーザーは離れていくでしょう。実際にどうなるかはこの際あんまり関係なくて、自分自身がそう思ってしまっているせいでコンテンツを稼働停止させられなくなっている‥って感じ。もし誰かに“そんなことない”なんて言ってもらえたとしても、染みついた生きかたはそう簡単には消えてくれなくて、誰かが伝えてくれた数少ない親切でさえ無駄にしてしまう。それがまた申し訳なくて、どんどん人に会えなくなっていく。どうしてこんなことに‥‥。

結局、休日なのに夕方6時くらいまで職場で作業をしていた。朝、職場を開けたのも自分で、帰りに職場を閉めたのも自分‥‥1日全部つぶして手に入れたものってなんだろう?お金もやりがいも達成感も何も手に入っていないのに、どうして時間だけが消滅しているの?手品?


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すっかり寒くなってきたので鍋を食べました。鍋は具材をえいやっ!ってやって放っておけばいいだけなので気軽だしおいしい。

鍋をつくって、“そういえば日記始めたばっかりのころもよく鍋つくってたな”なんて懐かしむなどした。2020年と一緒くらいに始めた日記だけれど、もう季節が一巡りするのに近いくらいまできたんだな‥‥始めたころは年末年始の真冬で、今はもうすっかり秋だ。月並みだけれど時間‥経つのはやいね?

丸1日いてもなお、作業を進めたいところまで進め切れなかったので翌日も職場に足を運ぶことにした。はぁ‥人生、死なないだけで一苦労だなぁ‥‥。



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