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20230622 (そりゃそうじゃ)

もくようび。相変わらずおしごとしかできていない!!!

おしごと立て込みまくってはいるんだけど、土日で札幌に帰ることにしている。あんまり長時間はいられないし、家族とか親戚関係の用事でほとんど時間がなくなっちゃうから家族とか以外の人と会ったりする時間は取れなさそうなんだけど。

なんならこの数日、それを楽しみにがんばってきたまである。今週、ドウ考えてもいろいろとおかしい。ひとりじゃないからまだがんばれているけれど、ひとりでこの立て込みかたをしていたら、もうとっくに潰れちゃっていたと思う。別にこれから先につぶれない保証はないんだけどね。(そりゃそうじゃ)

この日、日中の記憶がほとんどないな。またおしごとがイヤすぎて記憶を消しちゃったのかもしれない。じわじわとストレスはかかっているし、疲れてもいるけれど、先週みたいに貧血になるようなストレスは今のところ来ていない。

今のこの状況も、きっとみんなもっと言いたいこととかたくさんあって、そのなかでいろいろと言わないでいてくれているのかな、とか思っている。今の職場の状況、割と誰が見ても僕の部署?担当区域?が大変な時期だっていうのはわかる感じなので、気を遣われているのかもしれない。

家に帰ってきたらだいたい22時すぎくらいだった。本当はいっしょに頑張ってくれている(というかひとりで頑張らせてしまっているかも)職場の人とファミレスとかに寄ってくだらない話とかゲームの話とかしたかったんだけど、職場を出たころにはもうファミレスも開いていない時間だった。悲しいね。

相変わらず家に帰ったら寂しいので、すぐに人の配信を観たり、朗読を聴いたり、なんなら自分の配信を見返したりしていた。人の配信を観ているのはともかく、自分の声を聴いて寂しさを紛らわせているのはいよいよおしまいな感じある。


毎日日記を書いているわけだけれど、もし毎日日記を書いていなかったら、今週の僕ってどうなっていたんだろう?なんて考えたりした。たぶん、消えちゃっていたと思うんだよね。

配信をするわけでもない、ツイートをできるわけでもない、世界になにも発信しないまま、少しの間だけ人の記憶から消えてしまっていたんじゃないかなって。

日記を毎日書いていることのメリットの1つは、書く/書かないっていう判断がいらないことなのかもって思った。もし僕が気が向いたときに書く、みたいなスタイルで日記を書いていたとして、今週みたいな状況があったら、たぶん日記を書かないっていう選択をしてしまっていたと思う。その結果、ぽてと#さんは消える。少しの間だけかもしれないし、なにかのきっかけがなければずっとそのままかもしれない。

でも毎日なにかを書くって決めた時点で、書く/書かないの判断はいらないんだよね。もう書くということは決まっている。頭を回さなきゃいけないのはなにを書くかであって、書くか書かないかを判断することではない。

そうすることで、何かと理由をつけて日記を書かない日々が続く、ってことにもならないし、日記を読んでくれる人たちにとっては、少しだけ記憶に残してもらえる。

実際、ここ数日って日記以外の発信をほとんどしていないと思うんだよね。発信する、しないを選ぶ自由がある場合、発信しないことを選んでしまうような状況だったってこと。でもその自由がない日記という習慣があったからこそ、ここ数日も消えずに存在していられたのかなって思っている。

なんか途中から着地点がよくわからなくなったけど、僕は誰かに覚えていてもらいたいし、そのための手段の1つとして、日記が役割を果たしてくれていたら、毎日書いていることにも意味があるのかなって思いました。


ちなみに日記を毎日書くことのデメリットはめっちゃ大変なことです。助けてくれーーーーーって思ったこと、100回くらいあるもん。




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