ウルトラマン4K上映に見る全体的一体感についての所感

6月5日、一部のTOHOシネマズで緊急開催された庵野秀明セレクション「ウルトラマン」4K(以下4Kウルトラマンと書く)上映を見に行った。初代ウルトラマンの内容自体については多くの方が多種多様な感想や考察を書かれていることと思うので、ここでは映画館に足を運んだ時の私の中で生じたある気持ちについて書こうと思う。

まず、映画館に着いてホールに入った時の空気感が、普段あまり積極的にこういったリバイバル上映などといったイベントに足を運ばない私にとっては新鮮なモノだった。直近の例で言えば「シン・ウルトラマン」を見に行ったときなど、私も含めて一体どんなものを出されるのだろう、と期待半分緊張半分といったやや堅い空気があった。当日は平日ということもあって席の埋まり方もまばらで、上映開始まで談笑らしき談笑も無かった。

それが、4Kウルトラマンではどうだろう。土曜夜ということもあったが席はほとんど埋まり、老若男女色々な客がいた。上映中には様々なシーンで笑い声が聞こえた。それが果たして「そうそう、ここが面白いんだよな」だったのか「そうか、シン・ウルトラマンのあのシーンはここが元ネタだったのか。そのまんまじゃないか」という笑いだったのか、までは私には分からない。しかし、既に日本に表れて50年以上経つヒーローの活躍には、みんな一体となって見入っていたのではないかと思う。それは上映後に周囲の客の反応をなんとなく程度に聞き耳を立てていた私にも感じられたモノだ。

ここに、街頭テレビにおけるプロレス中継などを見る大衆の一体感というものの共通点を考えた。街頭テレビは画面が小さく映画ほどはっきりは見れないが、画面の(映画ならスクリーンの)ヒーローの活躍を見るという点で共通点があるのではないだろうか。名も素性も知らない同好の士達が、確かに同じモノを見ている。内心どう感じながら見ているかは分からないが、同じ映像を見て楽しむ仲間であることは確かなはずだ。多くの個がそれぞれ独立していながら、しかし緩い一体感を持って一つの映像に熱中する。

ここで、ヒーローショーとの違いを考えたい。ヒーローショーも、それぞれ独立した個が一つのショーに緩い一体感を持って見ている点は変わらないだろう。しかし、街頭テレビや映画は一枚の画面にしか映らないという「拘束」がある。ヒーローショーならば遠目にちらりと見ることもできる。しかし、テレビも映画も狭い範囲でしか見ることはできない。映像は立体的であるのに、平面的な制約を持つのである。この「一枚」の映像に対する熱中が、ある独特な一体感を場に生成するのではないか、その点で昭和の街頭テレビと4Kウルトラマン上映に共通点があるのではないか、と私は考えるのである。


一枚の映像と立体的な場という対比で閉じられた会場のライブやショーとの共通点・相違点も考えられそうであるが、私が書くには知識が足りなさすぎたので省略する。

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