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1年350日は凪いだ海で浮いていたい
noteの投稿ボタンを押して真っ白なまま閉じる。
目の前にあるのは「書けてない」事実。
真っ白なままなのは、
あったことをそのまま文字にしては消すを繰り返しているから。
朝起きたら雨だったって「単なる事実」を文学するんなら
比喩ですか?
違う言葉使って「ああ、雨なんだな」と伝わる詩的で抒情的で・・、
あーだめ無理!
「何層も重なった繊細なパイ生地を少しもこぼしてはならない」
触れることすら恐れ多いそんなミルフィーユはお出ししませんできません。
わたしのnoteは写真と一緒で全く映えねぇーーーー。
真っ白な下書きを作って「はぁ~~」と
ため息つくよりは、と
私はGoogleの「Keep」にメモしておくことにした。
あくまでもこれは覚え書きだったり付箋だったり。
note以外のこともここに。
だから少し気が楽。
いや辛い想いする必要ないんだけど、趣味なんだし。
日記とエッセイは違うなんて今更。
一歩でも寄せていきたいと取り組んでみたのが👇の記事。
「きめしを知らずに勘違いしたこと👉失敗談」からの
「きめしを知らない孫がくいついた👉ほっこり」へ。
#OnigiriActionに関連して思い出話でまとめるつもりだった。
最初はね。
ひっかかったのは
「きめしってどうやって作るんですかって姑に素直に聞かなかった自分」を
どっかに隠してるよねってこと。
エッセイを意識するのなら
すこーし潜ったとこに隠れてるというか隠してる
「書いた方がいい」部分をサルベージするべきなんだろう。
「自分こんな失敗して気づいたよ。」
「こんなところに配慮がなかったんだ。」
エッセイは告白であり反省であり感謝であり、でも私の場合大方は懺悔だ。
(おおごとではないにしろ穴があったら入って出たくないことがいくつも)
ただね、それを毎度毎度やってると結構自分を追い込みへこむんだわ。
「エッセイに近づけるためのもう一工夫」でへこむんだわ。
友人に「予定と反省が好きなA型だねー」と言われた私でもだ。
だって出来ればすましていたいじゃない?
カッコ悪い自分いつまでも見てたくないじゃないですか。
そんな入った穴から出て来られない自分を気取られず、
さらりと失敗談も出しちゃって、
あわよくば共感を得たいなどと実は思ってもいたりして。
だからエッセイに全振りするのはたまーに、にしてる。
疲れちゃうもん、自分に。
書けないってときはたいていイライラしているときだ。
怒りのエネルギーは身近な誰かへの愚痴。
ストレートに職場のバカが、みたいに書けば憂さ晴らしになるけども。
あ、書いちゃった、てへぺろ。
具体的にどこのだれがあー言ったこー言った、って
もし書くなら、、と組み立ててみるけどそこでやめる。
伝えるためには誰かを貶めるからだ。
できればしたくない。(脳内ではしてる)
狭い地域社会だということが記事にしない理由として大きいが、
自分のnoteをいつでも凪にしておくっていうのがテーマであり、
続けるための自分ルール。
負のエネルギーが満ちてる時は書かない方が私の場合は良いみたい。
それが凪でいられるコツかな。
納豆ご飯とか梅干しおにぎりとか。
気軽に手を伸ばしてぱくぱくかっ込んでもらえるようなnote。
「朝起きたら雨だった」をそのまま文学とする凪いだわたしの日常を。
その代わり本音を隠してスペアを出すようなずるっこはしたくない。
「エッセイ?日記?いいえメモです」
#書く部のお題で書いてみた
#読まれないnoteを書こう
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