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ジョブチューン炎上問題に見る日本人の精神性

正月三が日、とあるシェフの炎上がとどまることを知らず燃え続け、現在も炎上中である。炎上そのものは今の現代社会そう珍しいものでも無い話なので(当人にとっては不憫ではあるが)何とはなしにそのニュースをザッピングしていたわけだが、その経緯や原因を調べていく過程で、多くの日本人に散見されるある精神性を見出した。

まず私的なことを言うと昨年一年間、この「日本人の精神性」というものについて色々と頭を巡らせることがあり、自らの思考を纏める為に何度も筆を取ろうと机に向かおうとはするものの忙しさかまけてズルズルとこの時期まで一つの記事を書くことも出来ずついに年を越してしまった。

が、年の初め、このような何かを始めるにはうってつけの時期に、これまたちょうど折よくうってつけの話題が世間を賑わす中、この千載一遇の機会を逃す訳にはいくまいと遂に初の記事を投稿しようという次第である。なにぶん初めての記事なので色々とお見苦しい点は多々あると思われるが何卒生暖かい目で見て頂けると幸いである。

ことの経緯と反応

言外のことについてあれこれ妄想され批判をされても困るので、最初に私のスタンスを簡潔に述べておくと、まず新年元日のめでたい日にあんな辛気臭くなるのが分かり切った番組を放映する意味がそもそも分からない(それ故私自身リアルタイムでは格付けチェックで大いに初笑いをさせて貰ったのだが)。そしてシェフに対して不快感を覚えたからといって、それはいかなる個人攻撃を肯定するものでは全くないという2点はあらかじめ明確にした上で話を進めていきたい。

「ジョブチューン」審査員が食べずに「不合格」で賛否の声「前代未聞過ぎる」「相手に失礼」「あり得る」

記事にもある通り、審査員の1人である小林幸司氏の審査が批判の対象となっている。ファミリーマートの直巻和風ツナマヨネーズおにぎりの審査の際、実食することなく見た目の段階で早々に不合格を宣言した。その後司会やファミリーマートの社員に再三促されてようやく渋々食べ始めるわけだが、記事ではその批判として「作り手に対するリスペクトが足りない」「食べもしないのに判断を下すな」等といった声を取り上げている。一方小林氏を擁護する意見としては「シェフは審査をしに来ているのだから食べずに不合格という選択肢もあって良い」というものである。

確かにどちらも頷ける意見である。しかし事実として炎上という結果があり、同時に不合格を出した他のシェフは炎上していないという事実もある。某番組ではないが「その差とは一体何なのか」。これを解明するため両者の意見をもう少し詳しく紐解くとともに、炎上の本当の原因を探って行きたい。キーワードは「ポジション」と「視点」だ。

肯定的意見

「審査は味だけではない」「まっとうな指摘と改善案を述べている」こうした肯定的意見を持つ人達は何を評価しているのだろうか?意見の内容を見るに彼らは「料理人としての小林氏」に肯定的価値を見出だしているようである。逆に言えば「料理人として」全うなことを言っているのだからそれ以外の部分はそれほど大した問題では無いということである。

恐らく彼らの多くは普段からこの番組を見ている層なのだろう。「彼らの視点」からすれば今回のジャッジにおける演出もやや過激ではあるもののあくまで普段の延長上のものであり、より重視すべき判断の基準は「プロとしてまっとうな指摘が出来ているか」であったと思われる。

否定的意見

一方否定的意見である。こちらは料理人としての小林氏よりも「一人の人間の態度」としてどうかということを重要視しているようだ。記事で取り上げられていた意見の他にも、掲示板等で「食事するときに肘をついて食べるな」という意見が見られたのが象徴的である。彼らは普段この番組を見ておらずたまたま正月特番としてこの番組を見たか、あるいは見ていたとしても演出として受け入れるキャパシティを超えていたのだろう。「食事前に見た目で判定を下す」という初めての演出が、料理人としてよりも人としての側面をよりフィーチャーする結果になった感も否めない。

ただ、私自信はこれらの否定的意見のうち「頑張っている企業名に失礼」という意見には全く賛同できない。その理由については次で明らかにしていく。

小林氏の視点

さて、賛否両者の意見を分析したところで、今度は小林氏自身の立ち位置と視点はどうであったかを推測していきたい。小林氏は星の数ほどいる料理人の中でも特にこだわりが強く料理に対する妥協を許さないことで有名な人物である。それ故同じ同業者からも多くの尊敬をを集めていることでも知られる。そのこだわりは自身の経営するレストランが1日1組限定である所からも伺える。恐らくそれが最高のパフォーマンスで最高のもてなしをする限界なのだろう、まさに一所懸命を体現したような人物である。料理人としては。

そのような小林氏が呼ばれた今回のジャッジ企画。実際にコンクール等で審査員を務めたこともある小林氏にとってこの企画は「料理を審査する」という意味では他の審査と同様ものであり、そこにかける熱量に差はない。また、会社が商品開発にあたり並々ならぬ企業努力をしていることも十分に理解しリスペクトしていることは小林氏の商品に対する評価からも伺える。

そもそも前提として企業努力とは当たり前に行われるべきものであり、本当に小林氏が企業努力が足りないと思ったのなら「やる気がない」「本当にまともな料理を作る気があるのか」など企業の態度を問題とする批評があるはずだ(もっともこれを言えば更に炎上していたことは間違い無いが)。その意味であくまで不合格を下したツナマヨおにぎりという商品に対してどうすれば良いかを適切にアドバイスしたことは、小林氏が企業努力を認めていることの裏返しでありこの商品に対して「料理人として」真剣に取り組んだことの証左でもある。

そして皮肉にもその情熱こそが今回の炎上に至った最大の原因であると私は考える。

小林氏に足りなかったもの

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料理人としての真剣なジャッジに臨んだ小林氏がここまで炎上した理由、もうお分かりの人もいるだろうがそれは小林氏が「料理人として以外の立ち位置と視点を意識していなかった」、これに尽きる。

料理人として小林氏が審査に臨んだとき、その視線はどちらに向いていたのかといえば、ファミリーマート開発陣だろう。だがその審査はあくまで「テレビ番組」という一般大衆に向けたコンテンツの内の一企画に過ぎない。つまり最終消費者は一般大衆であってファミリーマートではないのである。この企画において小林氏が求められたのは料理人としての立ち位置、視点だけでは無かった。同時にそれが「最終的に誰に見られるのか」という「一番組出演者」としての立ち位置もまた求められていたのであり、これこそが小林氏に欠けていたものであり、視聴者が不快感を覚えた根本的な原因といえるだろう。いわば小林氏は、料理を一所懸命作るもののそれが誰に向けた料理なのかまで考えてはいなかったといえるだろう。

テレビ局の罪

前段で小林氏に欠けていた視点について話したが、正直なところこれをもって炎上の全責任が小林氏にあるとは言い難い。むしろ責任の殆どはテレビ局側にあると言って良い。何故なら小林氏は料理人としては一流であっても「一般メディア出演者」としてはただの「素人」にしか過ぎないからだ。小林氏がどうすれば不快感を与えなかったかという指摘ももっともだが、小林氏が視聴者目線を持つというのはあくまで二の次で、そもそも素人に期待すべきものではない。それを考えるのはテレビ局の役目だ。

その意味で「視聴者に対峙するプロ」としての一番その責務を全うしていなかったのはテレビ局だろう。台本の段階でその様な指定だったのか、或いは仮に台本が無くても絵的にまずいならばカットすることが出来たにも係わらずそれを放映した。

もっと言えば正月元日という放送の時期、普段の視聴者以外の人が見る可能性が高いという予測も含めあらゆる要素において全く視聴者の目線というものが意識されていない。しかもその結果を炎上という最悪の形で小林氏に全て押し付けたのである。小林氏に対する誹謗中傷をしないよう呼びかけるのも結構なことだが、まずはそこに至ってしまったテレビ局としての不手際を謝罪するのが先であり筋というものだろう。まったくもって度しがたい所業であり、事後対応に至るまでプロとして三流の仕事と言って良い。

終わりに―日本人の精神性とは―

ここまで小林氏が炎上した原因について見てきた。一テレビ出演者者としての視聴者に対する目線を意識することが足りなかったことがその原因と言えるが、同時にここからは冒頭でも述べたように典型的な日本人としての精神性を見ることができる。つまり日本人は元々「自分が今どの立場にいるのかを把握する」「相手の立場に立って物事を考える」ことが非常に苦手なのである。

日本人に特徴的な文化の一つに「察する文化」というものがある。言葉だけを見れば日本人だって相手のことを考えられるじゃないかと思うかもしれないが、基本的に日本人が行う「察する」とは、「相手の言動に対してその背景を推測すること」であり、その意味で察する文化とはリアクションの文化と言える。

それに対して「自分が今どの立場にいるのかを把握する」「相手の立場に立って物事を考える」というのは、自分が言動を起こす際に必要なものであり、アクションの文化・予測の文化と言い表せる。恐らく相手がある程度自分の言動の意図を汲み取ってくれるという察する文化が発達した結果なのだろうが、日本人は自らの言動に対して恐ろしく無頓着である場合が多い。この事がもたらす様々な影響については、また別の記事で語って行きたいと思う。

我々は他人と接する時、常にお互い何らかのポジションから言動を行う。そしてそれは今回の小林氏の様に、同時に複数のポジションに立っている場合も珍しくはない。立ち位置を把握するとは己を知ることである。そして相手の立場に立った言動を行う為の第一歩は、まず相手を知るということだ。つまり相手を知り己を知ることで、今まで以上に円滑なコミュニケーションを図ることが出来る筈である。そしてそこに「察する文化」が加われば、鬼に金棒に違いない。

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