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アジテーターはもう限界ですー東京都知事選から考察する無党派層の心理―

東京都知事選も佳境を迎え、いよいよ明日7月7日には東京の新たな首長が決まる。現在の展開は小池百合子候補がリードしそれを蓮舫、石丸伸ニ両候補が追いかけるという状況だ。

6月30日付の読売新聞による情勢分析

ところが蓮舫氏にとっては無党派層の支持が1割とかなり苦しい状況に陥っている(7月4日時点で、日本テレビの取材によると無党派層の支持は小池氏3割強、石丸氏2割弱、蓮舫氏1割強とのこと)。とりわけ目を引くのは蓮舫氏の女性支持層の低さで、蓮舫氏が敗北した際には、主要な敗因の一つとして語られることになるはずだ。蓮舫氏の出馬表明に際して眞鍋かおりが「うんざり」と発言し猛烈なバッシングを浴びていたが、結局のところ彼女の感覚こそが世間的な女性の意識に近かったのだと言えるだろう。

アジテーターの抱える問題

さて、国政における野党の基本戦術が人々の与党に対する不満を煽るアジテートにあることは論を俟たないだろう。そしてその筆頭格とも言える蓮舫氏が都知事選という場でここまでの苦戦を強いられている要因は何なのか。そこにはアジテーターという存在そのものが抱える根本的な問題が深く関係しているように思う。ここでは大きく二つの問題について取り上げていくことにする。

誰もが常に怒っているわけではない

まず第一の問題。上述の通りアジテーターの役割は権力者に対する人々の不満を煽り、怒りを喚起しそれをエネルギーとすることにある。しかし現実として常に不満を抱えている人間がそこまでいるのだろうか?

確かに人々の不満や怒りに訴える戦術は無党派層を取り込むうえで一定の効果があることは事実だろう。しかし怒りという感情は非常にエネルギーを使うマグマのようなもので、煽られたからといってそうそうすぐに溜まるようなものではない。そして常に不満を抱えている者同士で固まっていると分からないかもしれないが、皆が皆彼らと同じような不満や怒りを抱えているわけではないのだ。

つまりアジテートによって無党派層を取り込もうとするのであれば、どれだけの人が不満を抱き、またその怒りの強さがどれほどなのかを正確に把握しなければ効果は薄い。言い換えれば風を読む力が非常に重要となる訳だが、正直な所今回の都知事選において、最後の大噴火たる民主党の政権交代時のような有権者の強い不満が広範囲に渦巻いているとは到底思えない。

怒りへの慣れと反転

第二の問題は、もはやこの国の人々の多くがアジテーターの怒りに慣れきっているということだ。テレビをつけると野党が与党を批判し怒りをぶつけている場面を目にしない日は無いのではないかという程に、話題こそ違えど殆ど常に誰かがどこかで声を荒げている。

その事自体をとやかく言うつもりもないが、毎回野党の批判の度に「そうだそうだ!」と同調を示す人は少ないだろう。その結果人々は彼らの怒りに対して慣れきってしまい、徐々に興味を示さなっていく。謂わばオオカミ少年の怒りバージョンとでも言うべきもので、「またあいつら怒ってるよ」と相手にもされない状況が半ば生まれてしまっている。

そして無関心であればまだマシな方で、これが閾値を超えてくると今度は逆に彼らの怒りがアジテーターの方へと矛先を変えて跳ね返ってくる。親の夫婦喧嘩を見て泣き出す子供の例を挙げるまでもなく、利害関係の無い第三者にとって、誰であれ他者に対する悪口を聞き続けるというのは決して気持ちの良いものではない。とりわけ我が国はネガティブキャンペーンが有効でない国として有名であり、むしろこれを卑怯なこと捉える風潮さえある。そして他者への批判を聞き続けることによるストレスは、次第にその不快感をもたらす大元に対する怒りへと変換され、アジテーターの元に跳ね返ってくるわけである。

ましてや蓮舫氏は直近の大噴火である民主党政権交代時の中心人物であり、その後の民主党の失政もあって当時彼らの熱に煽られて投票したことを後悔している無党派層も少なくないだろう。その彼女が相も変わらず他者の批判をする姿を見て、苛立ちや怒りを覚える人がいたとしてもなんら不思議ではない。それが冒頭でも触れた眞鍋かをりの「うんざり」発言や無党派層からの支持の低さとして表れているのではないだろうか。

アジテーターのジレンマ

こうしたアジテーターの抱える問題を今後解決していく方策はあるのだろうか。結論から言えば残念ながらNOと言わざるを得ない。アジテーター戦術は有権者の不満を見極める力、そしてここぞという所でその怒りを煽るタイミングが非常に重要な選挙戦術だ。蓮舫氏のように恒常的に怒り続けているイメージを持たれている人間がこれをやっても効果は薄いどころか逆効果でしかないことは前述の通りである。

しかしこれを別の戦術に切り替えることが出来るのかといえばこれも難しい。なぜならば批判を止めてしまえば今度は支持層からの支持を失ってしまうからだ。アジテーターの支持者は、自らの不満の代弁者として与党を批判することを常に彼らに求めている。批判の手を緩めるということは彼らに対する裏切り行為であり、一度批判を止めようものならたちまち彼らからの支持を失ってしまうだろう。これを容認できるとは到底考えられない。

つまりアジテートを行えば無党派層の支持が離れ、行わなければ従来の支持層からの支持を失う。このアジテーターのジレンマとでも言うべき状況に陥っているのが野党、そして今回の蓮舫陣営の置かれた現状といえる。とはいえ現実的には今後も支持者の為にアジテートを恒常的に行い続け、それによってさらに無党派層の心は離れていくのだろう。

おわりに

最後にアジテートという選挙戦術に関して個人的な意見を言わせてもらえれば、本邦におけるアジテート戦術ははっきり言って時代遅れの産物となりつつあると思っており、今回の都知事選はそれを象徴するものとなるのではないかと考えている。有権者の怒りをエネルギーに変えることそのものが悪いことだとは思わないが、それ自体は何か新たな価値観を生み出すものではないからだ。無党派層の支持を鑑みるに、そのことに気付いている人も少なくないのではないだろうか。

国民や市民に対し将来にわたって具体的に何ができるか。各々の候補者はそうした将来に対する期待感によって選出されるのが健全な選挙戦だと思うし、あくまで現職に対する不満に訴えかけるのは従属的な役割であるべきだと考えている。

「お灸をすえる」という今にして思えば本当に中身の無いスローガンによって政権交代が果たされてから早15年。その結果を私たちは身をもって経験してきた。この度の蓮舫氏に対する無党派層の支持の低さは、単なる好き嫌いを超えてあのときの経験が多少なりとも活きたものであると信じたい。


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