伝統に定量的な認定基準はないにもかかわらず
夫婦同姓や性別役割分業といった、リベラリズムを支持する人々の間でしばしば「保守的」と揶揄される制度や社会体制がありますね。
そしてこれを擁護する人は、これらの概念を「伝統」とみなすケースが多いようです。
そしてその「伝統」を、リベラリストは「明治以降に始まったものを伝統だと言って後生大事に守る道理なんかありゃせんわ」と言ってまた退けようとします。
上記のやり取りはtwitter論壇では非常によく見られるやり取りです。
しかし、このやり取りについて一言言わせてください。
そもそも、何年間維持できたら「伝統」と呼べるんですか?
1.明治からの「伝統」は意外と古い
例えば、関東では老舗の定義は100年以上営業を継続することですし、江戸っ子は三代以上江戸に住み続けている人を指します。
一方、明治元年は2020年から数えて152年前、最終年度の明治44年でも108年前ですので、明治から続いている物事の方が、老舗や江戸っ子といった「長いこと続いている感覚のある言葉」よりも歴史は古いです。
したがって、「明治から始まった物事を伝統と呼ぶには、まだ歴史が浅すぎる」という言説は、私は適切ではないと考えます。
「何年以上続いている物事からが『伝統』と呼べる」と定義した上で、自分が批判したい事象が歴史的に浅いか否かを断じるのでないと、誠実な批判とは言えないのではないでしょうか。
2.伝統は人間の営為なんだから全部人工物だろ
また、冒頭に述べたような「長い歴史があるようで意外と最近浸透したもの」を「作られた伝統」とか「人工的な伝統」とか言う人がいますが、私はこれも正確な批判ではないと考えます。
伝統は人から人に伝播されてきたことによって、現代にいたるまで生き残ってきたものです。
また、伝統が現代まで生き残るためには、ただこれまでのものを守っていくだけでなく、時代の変化に合わせて絶えず少しずつ変化を加えていかなければなりません。
すなわち、伝統とはそれを守ろうとする人間の営為の中に見出されるものであり、すべての伝統は人が作ったものです。
したがって、ある伝統を「人工物」と呼んで揶揄することには、何の意味もありません。人をバカにするのに「やーい!お前の母ちゃん二足歩行ー!」と言うようなものです。
3.人が「伝統」のレッテルを貼りたいものの正体
結局のところ、人が「伝統」という言葉にかこつけて何かを言おうとするとき、そこには何らかの価値判断が含まれる、ということなんですよね。
昔から続いてきた物事のうち、自分たちにとって都合がいいもの、維持されていてほしいものを「伝統」と呼び、都合が悪いもの、排除したいものを「奇習」と呼んでいる。そんな人ばかりのように見受けられます。
例えば、クラシックのコンサートで曲がまだ終わっていないのに、終わったと勘違いして拍手してしまう人がいたとします(チャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》が最も有名)。クラシックを聴きなれている人の中には、このようなお客さんのうっかりをあまり快く思わない人がいるようです。
しかし、この「楽章間は拍手をしない」という慣習は、西洋管弦楽の歴史で言うとメンデルスゾーンの時代(1830年ごろ)から普及し始めたものと言われており、たかだか200年程度の歴史しかありません。
さらには、この慣習はいわゆるコンサート形式の音楽鑑賞形態全てに共通するものではありません。同じヨーロッパでも欧州ブラスバンド選手権では、曲の最後の伸ばしの音が鳴っている間から、感極まった観客が拍手を始めたり歓声をあげたりします。
自分にとって気に入らない慣習を「エセ伝統」と呼びながら、返す刀でこれこそが正しい音楽鑑賞の方法であるぞとでも言いたげな顔で「うっかり拍手」に眉をひそめる、そういうことはしたくないものですね。
この手の「自分にとって都合のいいものにポジティブな呼称を与え、都合の悪いものにネガティブな呼称を与えることにより、個人的な都合の良しあしと普遍的な善悪の境界を曖昧にして聴く人の印象を操作する」という手法は、「伝統」という概念に限らずそこかしこで見かけることができるので、皆さんも探してみてください。
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