「勉強の哲学」千葉雅也さん 読書メモ
決断主義に陥ってはならない。
フーコーが関心を寄せていた、芸術的に生きるということ。生きることが芸術であるということ。
労働と制作がひとつなぎであるというのは、まさに今の自分にリアルタイムな課題だ。
絵画教室に携わりながら、自分の作品制作や音楽を学んだり読書をして知識をインプットする時間もとりたい。
愛する人と楽しむ時間、サポートする時間もとりたい。時間の使い方が複雑化、自由化する現代において、それぞれが独立し分裂していると、自分が保てなくなってしまう。
そこで人生においてすべての項目をクリエイティブな制作行為だと定義すべきだという。
本作を読んで、自分が考えていたことがクリアに言語化されてすっきりした感覚もおぼえた。
著者である千葉雅也さんは、親御さんが絵描き、くわえて熱帯魚好き、最終的に哲学の方面へすすんだ。この3点において自分と近しい部分がある。
両親が絵描きで、自分は哲学科卒。卒業後は新聞社へ入社し営業マンに。熱帯魚や金魚にハマる。なかなかレアな生い立ちだと感じていたが、世の中には部分的ではあるが似たような境遇の人もいるのだなぁ。
アイロニーな態度には際限がない、ゆえにどこかでユーモアで横道にそれておくという態度も人生においては必要。哲学科入りたての学生に教えてあげたい考え方である。
学びや制作にも限りがない。
だからといって自分で枠を定めてしまうのもつまらない。でも人生崩壊させるほど突き詰めるリスクをとることもできない。リスクをとったところでどうなるのか。
今を生きる人たち=アーティストに共通する悩みだろうか。
不可能性を自覚したうえで立ち振る舞うのは賢い行為だが、「制作」や「創作」は時に人智を上回る。
その神秘性に、人は目が離せなくなるのかもしるない。
また、学ぶことで「ノリが悪くなる」
おかれてる環境のノリに従属しない、そのような状態に自分をおいておくこと。
これは会社員であったときから常に意識していたような気もするし、必死でその環境のノリを体得しようとしていた気もする。
要はノリに合わせながらも自分の個を確立したかったのだ。
でも言語の扱い方が自己と一致しすぎていて、色々とストレスも多かったように思う。
今後は言語を意図的に玩具として使い、現実を変えていきたい。
それも無理のない範囲で…