
表現する者と、表現を鑑賞する者のヒエラルキー問題
誰もが多数の人々に向けて自己表現ができるようになった時代。
何の特技もなくても、とりわけ容姿が優れていなくても、表現者になれる時代になった。ますます身近になった表現者に、我々は親しみを覚えたり応援したくなったり、憧れを覚えたりする。しかしどこかで、「一般人」から抜け出したかのように見える「表現者」に嫉妬していることもある。
多数にむけて「表現」している側の人間と、それを鑑賞する側の人間には、常に権力関係、ヒエラルキーが生じるのではないかと思う。
だからいつまでたっても芸能人は常に無理解な批判に晒されたりする。単に経済的にいい暮らしをしているから、というだけではない、表現する者とそれを鑑賞する者では、表現する側に自動的に権利付与される気がしている。
もちろん視聴者がほとんどいないユーチューバーや、全く売れないタレントではそこまで威力はないだろうが、それでも、いくばくかの権力関係が発生するのである。
それは特にSNS上でさらに顕在化された。知り合いの子のプロフィール欄が急に「フリーランスライター・世界を旅しながら執筆をしています⭐︎」とか。「アーティスト」とかになり、なにやら楽しそうな写真や高尚そうな発言をしているだけで、急に遠い世界の人になってしまったような気がしてしまう。冷静に考えて、急に彼らの生活水準が上がったわけでも、自分と比べて特段豊かで毎日オッパッピーみたいな生活を送っているわけがない。
なのに、無意識にヒエラルキーを越えられたような感じがしてしまう。このSNS上での比較による自己意識の変容については世界的ベストセラーである「スマホ脳(アンデシュ・ハンセン著)新潮新書」にも詳しく書かれている。
人は潜在的に目立ちたい、でもリスクはとりたくない、という願望を抱いている人が多いのだろうか。上記の本によると、人は自分語りをしている時、人の話を聞いている時よりも、圧倒的量のドーパミンが出るらしい。となると、やはり人は多数の人間に自分を見てもらうことに快感を覚え、それを現代ではSNSが増幅させていると考えるのが無難か。
「嫉妬」と「憧れ」「応援」がどの地点でスイッチオフされるのか、興味深い点だ。応援していた人を信じられなくなったり、羨ましく、嫉妬していた人を急に応援したくなったり。
SNSで不必要な可視化が進んだ結果、人々は自信を失いやすくなった。自尊心の低くなった人々に受ける「表現者」」はとにかく低姿勢に見える人か、人々が言いたくても言えない本心を代弁してくれる人(そう、トランプや森元首相のような・・・)になってしまうのかもしれない。
コロナ禍で、ますますSNSへの依存度は増している状況はもうどうしようもないし、それによって経営難のお店が救われたりと、良い変化もたくさんある。
スマホを捨てたり、完全にSNS断ちすることは、きっと多くの人にとって非現実的であろう。SNS疲れ、もしくはテレビ疲れ、メディア疲れしてないかな?と定期的に自分に問いかけながら適切な距離をとっていくことが心身の健康を守るためには有意義なきがしている。