ボーイズラブとアートのゆくえ

3度の飯と同じくらいBL(ボーイズラブ)が好きな私は、油絵を再開した時から自然と「女性から見た男性」を意識的に描いている。
それがアートの世界ではまだまだ少数派であることも意識しつつ、当然のように男が美女をねっとりと描くように女が男を描いて何が悪い?というように。
もちろん、ヌードであることだけが主題ではなく、絵画として自分基準の美しさを満たすことが第一条件。

ほどなくして日本画家で男性ヌードを描く木村了子さんという方がいることを知る。
17年近く男性を描き続け、近年またアート界の新たなムーブメントとして注目されつつある。
木村さんの作品は、ユーモアとエロティシズムがある種の整然性でもって高度に構築された完成度の高い世界感。
同じ趣向の者として嬉しいことと思いつつ、結局男性的・直線的・進化論的な美術史の中に組み込まれてしまうという矛盾が生じるのではという捻くれた気持ちも芽生えている。
最近見かけたデータによると美術の世界の要職者、審査員や教授などは男性が8割らしい。
美術の世界で評価されること=男性から評価されるということ。
女性からみた男性を描いた作品をヘテロセクシャルな(おそらく)男性が評価するということ。今更。

女性のBL好きは何も現代に始まったことではなく、日本では江戸時代から浮世絵などで生娘が男性同士の恋愛を夢想する作品もある。
昔から女性が嗜んでいたことを何百年も経ったのち、ネタ切れしてきたアート界を蘇らせるためにつまみ食いされているといったら言い過ぎだろうか。
むしろ、これまでの西洋美術史を飾ってきた作品群こそBLの宝庫だと思う。描き手は残念ながら圧倒的に男性が多いものの、巨匠達による「愛でられる男性像」として観ることができる作品はあげればきりがない。
(ミケランジェロ、ティツィアーノ、ヴァンダイク、etc…

BLが不自然に持ち上げられるムーブメントは、何度も何度もフェミニズムが繰り返し神経症的に流行する経緯と近しいものも感じる。
今までずっと存在しているものなのに毎度初めて発見されたかのように。
2013年、オルセー美術館で男性ヌード展が開かれたので、西洋美術史の世界でもまだ男性ヌード絵画が異色なものとしてみられているらしい。

今後男性を描くアーティストが日本でも増えてくると、どうしても先人の名前が上がってくるのだろうが、この人がいたからこうなった、というようなヘーゲル史観的な、直線的な歴史観こと否定したいものだ。
すでに土壌は実っていたのにも関わらず、美術史をつくっている男性達が注目するかどうかということ。

私個人的には美しい女性の身体も好きだし美しい男性も好きなので、垣根なく描きたい。
今は男性を描くのが面白いので描いていたい、という感じ。
ジェンダーの狭間をいったりきたりするのが楽しい。今さら男だからどうとか女だからどうとか、人間はそんな単純なものじゃない。
うまく言えないが、結局合田誠のミラーリング、女性から男性への加害性も言われるようになりそう。
わかりやすく言語化・正当化できる作品はどこかつまらない。できるだけ言語の外側、割り切れないところで戦いたい。

とはいえいくら自由なアートの世界でも、何かしら群れないことには社会的な影響力を持つことは難しい。
男性的な社会からの評価が嫌だからと、それに代わる別の権力を生み出せるかというと現時点で思いつかない。
まずは何かの船に乗らないことには始まらないのだと割り切ってでも次に進まないとね。

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