見出し画像

芸術と崇高とは…

美と宗教は否応なしに結びついてくる。
あまりに美しい光景を目にした時(私の場合、美しい鉱物を見た時、波照間島の海を見た時など)誰しもどこか神聖な体験として刻まれるだろう。そしてその経験をどこの誰ともわからない他人にいたずらに消費されたくない、独占したくなったりする。
芸術と崇高という概念もあるが、果たして人間にそんなことが成し遂げられるか。
映画「フランダースの犬」で、ネロとパトラッシュはたしかにルーベンスの絵という崇高の中に消えていった。
しかし今の時代現実にそのようなことがあるのかどうか。

端的に言うと、芸術(人間)は自然に勝てない。という絶望から考えることで何か見えてくるものはあるかどうか、である。

自然の美しさを感じるのも、また人間ゆえ。
美しさを分析し、表現しようとすることで、ますます自然の美しさを知る。自己矛盾をおこしているようだが、事実。
そしてあえて実物よりも、個人の手が加えられた解釈が好まれることもある。

芸術と、現代アートと、古典美術と、それぞれ意味するところは違う。
現代アートに崇高さを感じる人はどれほどいるだろうか。
ルーベンスの絵を超えるような、写実的だが、ただの写真の写しではない肉眼的なリアリズムに到達しようとしている画家は現代でもいるのだろうか。
それよりも、テクノロジーや、最新の社会問題を軽快に取り扱って、something newな仕組みを作ろうぜ、と思っているアーティストが圧倒的にトレンドだし、多いと思う。

現代において、崇高とは…
自力では答えが出なさそうなので、李禹煥先生や
ハイデガーの著書を頑張って読むとしますか…

いいなと思ったら応援しよう!