記号化への嫌悪
色遣い、筆致、デッサン力、モチーフ、全てを記号化したような絵画作品、どんなにクオリティが良くても好きになれない自分がいる…
作品を見る時にまず、一定のクオリティがあるかどうか、主題や技法に独自性、目新しさがあるか、単純に好みかどうかを判断するのだが、ひとめで「なんかやだな、、」と思う作品は珍しい。
だが最近の気鋭の美大生の間で流行っているような画風、ピーター・ドイグを更に記号化したような、物質性と描写力を全て記号化するような作品はなぜか生理的に受け付けれない部分がある。
世代的な感性かもしれない。
携帯電話に絵文字が登場したときも、「こんなもので私の気持ちが表現できてたまるか。単純化するんじゃねえ」と思っていた。
だかいまやそう思っていたことすら忘れている。
でもいまだに絵文字で表現する文章は他人事感があるといえばある。
今の10代の子らにすれば、感覚的にさらに記号化がすすんでいてもおかしくない。
自分の感性はただ古くなりはじめているだけかも。
ただ、「抽象化する」ことと「記号化する」ことの違い、そこにはこだわってもいいような気もして居る。
「記号化」が嫌なのは、いのちを生きているくせに、どこか他人行儀がするところ。
熊谷守一好きの私からすると、「いのち」が好きなので。
絵画自体ある種の記号であるから、若い人たちからすると絵文字のような絵画も現実味が違うのかもしれない。
でも「なんかやだな」の感覚は大事にして鑑賞していきたい。
自分の作品も、ただの記号にはしたくない。