褒め言葉が嫌味に聞こえる

 自分言うのは本当に恥ずかしい話なんだが、
ここ数年で「イケメン」と称される事が偶にある。

 私の顔を説明すると目は一重だが小さいわけでも無く、鼻も特別低いわけでもない、どこか顔のバランスが崩れている感じも無い。
 レベルをつけるとすれば中の中、イケメンでもなければ不細工でもない、
とどのつまり「普通」だと思う。

 しかし普通の顔はメンテナンスが必要であり、浮腫んでいたりする寝起きの顔や、渋い表情をした時は所謂「ブサイク」と成りえ、逆に髭を剃ったり、眉毛を整えてあげたり、肌のケアをしてあげたりと若干の努力をすることで、特に印象にも残らないが不快感も与えることの無い「普通」に成れる。

 つまり私は普通の顔になるために努力をしてから外出しているのである。
と言うかほとんどの人がそうだと思う。

 そんな中何もしないでも寝起きの顔やどんな変顔をしたところで顔立ちが整っている人間は事実、存在している。

同じ人間ではあるものの、規格が全く別の生き物である。
人はその存在を「イケメン」「美人」と称している。

 昨今では多様性、ダイバーシティなどと言う言葉を散見するし、私自身も
その考え方はゆとり教育の中で自然と根付いてはいるつもりだ。

 だからと言って「イケメン」と言う言葉は多用すべきではないと思うし、
「イケメン」「普通」「ブサイク」はあくまでも別枠で考えるべきだと思う。

 私は「普通」の枠の人間であり時として「ブサイク」の方に針が振れる人間だ。
しかし不思議なことに中の上になるためには生まれながらのギフトが必要である。
 振り幅はあくまでも2つの属性しか跨ぐ事ができない。

 つまり「イケメン」とはそもそもの概念が違う生き物なのである。

 ヒト科イケメン目なのだ。

すなわち私が時折言われる「イケメン」は当人からすると褒め言葉なのかもしれないが、私からすると犬に対して猫と言ってるくらいちんぷんかんぷんなのだ。

ただ、言ってくれている人はきっと、ありがたいことにそんなこと思ってもいないし、おそらく息を吐くように出てきた言葉なのだろうから、私もありがたく受け取るべきなのだろう。

 この文章を綴っている中で気付いたのは、この怒り、憤りははある種
「イケメン」に対するルサンチマンなのである。

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