ビッグイシュー
駅前などで赤いベストのようなものを着て帽子を被った人が,薄い雑誌を販売しているのを目撃したことはないだろうか。
これまで私は,びっくりするくらい彼らを風景としてのみ認識し,気に留めることもなかった。彼らが何をしているのかわからず,いや知ろうともせず,思い返せば記憶の片隅に映る彼らはむしろ,「なぜ下を向いてただ突っ立っているだけなのだろうか」という不気味な存在であった。
駅前に立っている人たちというのは,基本的に声が大きいことが多いのがこれまでの印象だった。私自身,赤い羽根募金を行なった際には必死で「募金にご協力お願いします!」と声を張り上げたものだ。また,署名活動,人やペットの情報提供を求めるチラシの配布,選挙活動,ストリートライブなど,基本的に駅前に立つ人は騒がしいことが多い。しかし,彼らは必ずしも道ゆく人に対して声かけをしているとは限らず、概ね静かに持ち場に立っている。
ビッグイシューについての詳細は,実は私も購入して読んだ最初の刊の冒頭のページを読んで知った。以下はそれとほとんど内容が同じであった,ホームページからの引用である。
* * *
2022年1月某日,いつも使うJRの駅前でまたもその人を見かけた。通り過ぎて改札に入ったところで,一緒に歩いていた恋人に
「ああやって売ってる人たちのこと,ほんのつい最近までどういう人たちなのか知らんかったんよ」
「何してるかわからんって思ってた」
と話した。
すると恋人は
「買ってきぃや,俺も買ったことないし」
といきなり500円玉を私に握らせてきた。
「いやもう,改札入ってもうたし」だの
「ま,また帰る時でいいやん」だの
「一人で行くのなんか怖いかも…」だの
あらゆる言い訳を並べるも虚しく,ホームから改札まで私を連れ戻すと「まあ『一番新しいのください』って言ったらええだけやから」と言い残して,恋人はさっさとお手洗いに行ってしまった。
仕方なく,駅員さんに「用事があって」と出してもらおうとすると,うんざりした様子で小言を言われる。
「毎日100人くらいいんだよ,お客さんみたいに入場したけど出してくださいっていう奴。どうにかなんないんすかね。とりあえず,入場料120円もらいますからね。」
もうこの時点で泣きそう。日頃から溜まってたであろう鬱憤を私にぶつけないでくれ。確かに私が迷惑な客の一人だったことは悪いし謝るし。でもそんなネチネチ言わんといてよ…こんな気持ちになるならやっぱり買いに行かん方が良かったやん…と背中を押した恋人を恨み,心が折れかけのところで
「まあ今回はお金,いいですけど。どうぞ」
と出してくれた。
早く駅員さんの視界から消えたくて,逃げるように小走りで赤い服の元へ向かった。
赤いキャップとベストを着用した販売員さんは道ゆく人には背を向けて,壁際に置いた自身の荷物を整理している様子だった。一呼吸分立ち止まって,頭の中でさっき教えてもらった言葉を反芻する。
「あの,それ買ってみたくて。えっと,一番新しいのください」
私は購入するその時まで,販売者が複数号持っているかもしれないことを想定していなかった。というかそもそも,雑誌というものを読まない私は「最新刊」というものがあることすら知らなかった。
販売員さんは振り返るとにっこり笑って,
「はい,ネコちゃんのですね」
と言ってまたもゴソゴソして私に表紙を見せた。
納得。確かにネコちゃん。
「ね,今月かわいいですよね。お代金は450円です。」
と言われ,500円玉を差し出すとすぐにお釣りを用意してくれた。
支払いが終わると,
「じゃ,これ」
と差し出したネコちゃん表紙のビッグイシューに,チョコレートモナカの柄がプリントされた小さなメモ帳を挟んでくれた。
「今月はチョコレートのメモ帳をお渡ししてましてね。ほら,ここ点線入ってるでしょ。ポキッと折って完成ってわけですよ。ふふっ。ポキッて。ではでは,寒いですがお気をつけて行ってらっしゃいませ。ありがとうございます。」
そういって小さくペコっとお辞儀をした販売員さんが,どうしようもなく優しい人なんだと実感して,同時に自分の中にもやもやざわざわした感情が芽生えてきた。もっと話してみたいという気持ちと,なんだか自分がこの人の世界に入ってはいけない気がして,ありがとうございますと口の中で呟いてそそくさと改札へ向かった。
* * *
電車内で大体読み切れるくらいの分量のビッグイシューは,思っていたよりも「普通の雑誌」だった。雑誌というと私は分厚いファッション雑誌なんかを思い浮かべてしまっていたが,いわゆる「マガジン」と聞いて想像するようなものだった。
電車内でも,先程の販売員さんとの別れ際のもやもやとした感情の正体は分からなかった。だけど,なんとなくざわざわとして悲しい気持ちだった。
数時間後,私はマクドナルドで号泣していた。
どうしようもない感情の正体がわかってしまって,絶望していた。
販売員さんの姿を「かわいそうだ」と思ってしまっていたこと。
その背景には,ホームレスあるいは生活困窮者に対する否定的で,潜在的な差別意識があったこと。
そういった意識に出くわしてしまって,でもこれまでのことはどうすることもできなくて,ただただ自分の醜い感情をこれからどうしたら良いかわからずに涙で押し流すしかできなかった。
* * *
その後しばらく販売員さんを見かけることはなかった。ただただ私が駅を利用する週に1・2回の時に、なんとなく歩道橋を歩きながら探してしまう癖が付いただけだった。
どうにも会えないので,前回もらったチョコモナカの柄のメモ帳に短いお手紙を書いてスマホケースに持ち歩くようになった。いつ会ってもいいように。次会った時,きっとまた緊張してうまく話せないと思ったから。
3週間後,無事にその駅前で見つけることができた。
その日,乗りたかった電車の時間は迫っていたけど,今を逃したらまたいつ会えるか分からないと思ってまっすぐ近づいた。
「こんにちは。一番新しいの買いたいです。」
前回より幾分か相手の顔を見ることができるようになった。けれどやっぱりどこか近寄りがたさを感じて動きが強張る。目が合うと,思っていたほど歳はいっていないのかもしれないと感じた。500円玉を差し出して,お釣りを準備してもらっている間に書いてきたお手紙を探す。
販売員さんは,前回と同様優しそうに笑いながら,またもチョコモナカのメモ帳を最新刊に挟んでくれて,手渡してくれた。
「あ,これ以前にいただいて」
と手に持った手紙を差し出そうとすると
「持っててくれたんですね」とはにかみはる。
「これ,短いですけどお手紙なので,受け取ってください」
と渡すと,びっくりしたような顔をしてから,
「嬉しいです。ありがとうございます。そうですねぇ,何かお返し…」
とメモ帳などが入った箱の中をゴソゴソと探し始めた。
「お返しとかは大丈夫なので…」
と私がもごもご言っている間に,キャラクターの小さなシールをお返しとして差し出し,
「とっても嬉しくて。ほんとこんなのしかないんですけど。ありがとうございます。またお待ちしておりますね」
とペコリとお辞儀をされた。
* * *
気付けば1ヶ月半が経ったが,いつもの駅では見かけることはなかった。思えば,私が駅を利用する時間が早すぎたり遅すぎたりしたせいもあるだろう。
そんな折,実家の近くの区役所に用事があって向かうと,地元のJRの駅で探していた赤い帽子の販売員さんを見つけた。
しばらくいつもの駅で買えていなかったこともあり,「一つ前のをください」とバックナンバーを購入する。ここの販売員さんは,雑誌用の包装の袋に入れて手渡してくれ,「ありがとうございます」と深くお辞儀をして見送ってくださった。
販売員さんを見つけた時の奇妙な感覚が,数日(数週間)経った今,また私を締め付ける。私はどこかで「地元の駅なんかにビッグイシューの販売員さんがいるわけがない」と決めつけていた。それは同時に,地元でホームレスやそれに近い生活を営んでいる人の存在を感じてこなかったこととつながる。
20年間住んできた地元で,家の最寄り駅ではないものの幾度となく使ってきた駅だが,私の記憶に赤い帽子とベストのおじさんはいない。ひょっとしたら,本当につい最近ここが販売スポットになったのかもしれない。しかしおそらくは,私自身が風景としての認識によって販売員さんをさんを無いものにしてしまっていたのだろう。都合が良いように,文字通り不可視化してきた存在に気づいてギュッとつままれたような感覚になる。一方で,ほんの少しその存在に気づくことができれば案外すぐに見つかるところにいることも感じた。
* * *
こちらには,販売員さんがいる場所とおおよその販売時間が記載されている。
これを見つけてから,いつもの駅前で販売員さんを見かけることが増えた。その時間に通る時に意識して見るようになったからかもしれない。
相変わらず私は,一つ前に購入した際に頂くメモ帳に簡単なお手紙を書いて新しいものを買う時に交換することを繰り返している。月2回の発刊だけど,2週間に1回会えない時もあるので時々抜けていたりする。多分それで丁度いい。
なんとなく,黙ってじっと立って雑誌の路上販売をしている姿をこわく思っていたのは,その人のことを知らなかったから。知らない・わからないって怖い。だからこのnoteは,買ってみてくださいというお願いとかではなくて,そういう人がいるんだよという紹介。以前の私みたいな眼差しを向けてしまう人が減ればいいなという,エゴの塊から紡がれた文章。