木曽駒

しんどいことの通り過ぎ方

この夏、サークルの人たちと木曽駒ヶ岳に登ってきました。
実は2000mを超える山には行ったことが無く、木の生えていない山は初めてでした。
アウトドア活動は好きですが、ハイキングは昔から好きじゃないです。しんどいことは嫌いなので。今回は色々重なって勢いだけで「行く」と二つ返事をしてしまったので、日が近づくにつれて気前の良い返事をしたあの日の自分をかなり憎んでいました。
傾斜の急な岩の道を淡々と、一定のペースで脚を前に運びながら、私はいつも通りのしんどいことの通り過ぎ方を実践していました。

私のしんどいことの通り過ぎ方は、いつも決まっています。
やり過ごし方、って言うとなんかその時間何も考えてない無駄な時間みたいだから言いたくないのですが。
通り過ごし方、が最適かも、電車の乗り過ごしみたいな感じの。

それは、「もう泳いでへんやん」と思うことです。

4歳から13歳まで水泳を習っていた私は、「4本×4セット」のメニューが大嫌いでした。1本何mだか忘れましたが、なにせ今日はこの泳法と決められて泳ぐこのメニューは、1時間のレッスンの最後に行われるもので、体力のない私には最後のとどめを刺されるようなものでした。水泳って、フォームが乱れた方が疲れるのに、もはやそのフォームの維持すらできなくなっているので多分側から見てた人には前進してるけど溺れかけているように見えていたんじゃないでしょうか、よく注意されていました。

「4本×4セット」のメニューの開始は、時計の秒針が12とか6のところにきたらコーチが水をペシっと叩くのが合図です。その、息を吸って軽く潜って壁を蹴るまさにその瞬間が最高に嫌いでした。今からしんどいことがスタートするのが分かっている中で肺にいっぱいに吸い込む空気は、とても重くて既に苦しいので。泳ぎ始めると、だんだんと息継ぎの間隔が短くなり早くなる鼓動を感じながら早くこの時間が終われば良いのにと考え、間も無くつく壁に手を触れては、ああ後何本と数えながら再び壁を蹴ることの繰り返し。

でも、そのメニューも終わりを迎えます。
なんなら水泳も、もうずいぶん前にやめています。
今、私は泳いでいませんし、呼吸が苦しいなんてことはありません。
当たり前ですけど、時間は進むし、動作は始めがあれば終わりがあります。
「もう泳いでへんやん」は、「あんなに空気を求めて苦しかったあの時間も今は過ぎ去って、ほら、今私はここにいるでしょう?」と思うことです。
今しんどいとしても、いつか過去になってしんどくなくなる時間が訪れると言い聞かせます。

一歩ずつ岩の感触を足の裏に感じながら、気づいたら登り終わっているし気づいたら山荘でご飯食べているし気づいたら家帰って布団で寝てる、ほら、もう泳いでへんやん、と言い聞かせていました。

今日は私のいつもの「しんどいことの通り過ぎ方」、というか、「通り過ごし方」のお話でした。

ぽてと


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