ガンジーとヒーラーと癒し〜 必要なのは勇気であると…
『心にナイフをしのばせて』というジャーナリストの本があります。
高校生が同級生の首を切断して殺害。
その後、少年は少年法に守られ、医療刑務所に服役3年、後に弁護士として活躍したというのについての本。
本の内容は兎も角、少年の親は遺族に賠償金を支払わず息子の教育費に投資。逆に遺族たちは家庭崩壊したとか。
「法が仇討ちを行い、遺族の復讐心だけでも解放する社会こそが健全ではないか?」という疑問を提示するブログを読みました。
皆さんは、こうした発信にどういった考えを持つ(・ω・`)?
僕は、仮に遺族が復讐しても、その後に幸せにならないといけないですので、法が仇討ちをするという争いの延長が続くのを助長する様な発信は、あまり良くないと思う。
(でも、それを制止出来るなら、そうした発言を止めさせた方がいいと思うわけでもないのです。)
または、ブログもしくはメディアがピックアップするならば、(所有格なしの)争いのエネルギーを増すことをせず、遺族の心を癒すことを考えたものを発信するべきだと思う。
あるいは、法による復讐という事ではなく、少年のような加害者側が深層に抱える問題を解きほぐすことをするべきだと思う。
それも、遺族の側と対立したり分断しないで、ほぐれてくれないといけないと思うのです。
このような問題がある時、
僕は、インド独立の象徴であるマハトマ・ガンディーの言葉を想起します。
「殴られた相手を許すこと、相手を許し自分を変えることは、そして排除せずに共生することは本当に勇気のいることです。」
「非暴力運動において一番重要なことは、自己の内の臆病や不安を乗り越えることである」
ガンジーはこのように主張したと言います。
もう一つ想起する事は、
「法が仇討ちを行い、遺族の復讐心だけでも解放する社会こそが健全ではないか?」という疑問が出てくるのは、
ヒーラーが癒す時には、自分と相手の境界線がない(あるいは薄い)ということを知らないからなのだと思うのです。
仇討ちや復讐心からは、癒しはないでしょう?
スピリチュアルなヒーラーの知識や、ヒーラーのしていることはもっと一般化しても良いと思う。
どうして、これを認めようとしない風潮があるのでしょうか。
なぜ癒しより法が優位なのでしょうか。
強制力のある法や決まり事で解決しようとしても、わだかまりはいつまでも残るのではないでしょうか。
そのシコリは後の世代まで続いてしまいます。
ガンジーの主張も、必要なのは勇気であると、心の持ちように帰結しています。