有吉佐和子『悪女について』 -富小路公子とは一体何だったのか-

有吉佐和子『悪女について』は、謎の死を遂げた美貌の女実業家、富小路公子を、彼女を取り巻く27人の男女のインタビューから紐解く長編小説。

語り部が変わるごとに変貌する富小路公子という存在に、私は惑わされ魅了されました。そして、物語を読み終えた後、彼女のその正体を捕まえてやりたいという衝動に駆られました。

ということで「この作品の主人公である富小路公子とは一体何だったのか」という問いについて考えてみます。


富小路公子とは何だったのか

結論から言うと、「富小路公子とは、理想を投影するために都合のいい器」というのが私の考えです。

先述した通り、この物語は彼女を取り巻く27人のインタビューからなっています。
公子の印象は人によってまったく異なります。ある人は「悪女」だと言い、ある人は「純粋な女性」だと言います。他にも「やり手の女」「献身的な妻・母」「スタータレント」など。この作品ではこういった公子への印象が27もあります。そして、公子は互いに相反する・矛盾する印象すら持ち合わせています。これらの印象が1人の人物に集約されていることは一見不思議に思えるかもしれません。

しかし、これは決しておかしなことではありません。印象とはその人自身が持っているものではなく、受け手の価値観に基づいて、その人が持っている要素から勝手に判断されるものだからです。
つまり、彼女自身が多面的だったのではなく、彼女に向けられた視線の持ち主の価値観が多面的だったのです。

公子に投影された理想とは

公子への印象は人それぞれといっても、それらにはいくらか共通する部分があると考えました。それが「理想の投影」です。

たとえば、ファッションデザイナーの林梨江(その十)は、公子を自分の作品の魅力を最大限表現してくれる女性として理想化しています。

また、富本寛一(「その十四」)は、公子を「清らかで美しい女性」として理想化し、彼女を手に入れることで自分の劣等感を補完しようとします。寛一にとって、公子は自尊心を満たし、自己価値を証明する存在でした。

さらに、北村院長(「その十九」)は、公子を愛犬であるマルチーズ・光子にふさわしい飼い主として理想化しています。美しい犬には美しい飼い主が必要だと信じる彼の価値観の中で、公子はその理想を体現する存在でした。

この他にも、多くの人々が彼女に理想を投影し、それに陶酔・崇拝・思慕といった感情を向けることがあります。

理想化と裏切り

一方で、公子を憎む語り手たちも存在します。
渡瀬義雄(その四)や沢山夫人(その八)、公子の長男である義彦(その二十四)などです。そういった人々は公子に対して理想化をしていたものの、それを裏切られたために憎しみを抱くようになったのではないでしょうか。そして、その度合いが強いほど、彼女に寄せていた理想の大きさを逆説的に証明しているのではないかと考えます。

理想の投影は公子自身も行っていた

公子は他者を利用するのと同時に、子供たちや愛犬、そして自分自身に理想を投影して、その実現のために生きていたとも考えられます。そのためには他者を利用することも厭わなかったと言えます。
その人生は本当に幸せだったのでしょうか。

富小路公子はフィクションの存在である

メタ的な視点から見ると、富小路公子という存在はフィクションのものです。彼女は、美貌・聡明さ・潔癖さ・商才・カリスマ性といった、「女性として考えられうるすべての才能」を持ち合わせるようなキャラクターとして描かれています。著者である有吉佐和子ですら、公子に「理想」を投影していたのではないでしょうか。

終わりに

富小路公子という女性は、多くの理想を映し出す「鏡」でした。精巧にカッティングされた宝石のように、見え方がくるくる変わる女といった方が適切でしょうか。

彼女の多面性は、読者である私たちの内面や価値観をも映し出しているのかもしれません。そのため、読者は整合性を図るために自分の価値観に基づいた自分が信じたい像を公子に見るのだと思います。

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