向き合うこと、言葉の大切さ
9/26(火)
天気:くもり
昨日ネットニュースを見漁ってたところ、また興味深い記事を見つけた。
記事によると、秋季神奈川県大会3回戦・対向上高校戦で辛勝した試合後
横浜のロッカールームからは、外で待機している記者たちが、ハラスメント行為だと捉えてしまうほどの監督の怒声が響いていたという。
その時に録音したという音声も記事に載っていた。
それが実際のものか、真偽のほどはわからないけれど、たしかにすごい怒号だった。
そして記者は、監督本人、さらには学校にも問い合わせたそうだが
「本気で選手と向き合っている結果」
「問題ない」
とのことで、学校サイドはハラスメントではないと言い切っていた。
この記事に対するコメントは賛否両論。
「この時代にそんな指導はありえない」
「自分の子どもには横浜高校で野球をやらせたくない」
という意見もあれば
「このぐらい強い指導が必要なときもある」
「選手から批判の声が出てないなら良いじゃないか」
という意見も。
きっと一昔前だったら、こんなふうに賛否が分かれることはなく
「熱血指導」の一言で表現されて、大した問題にはならなかっただろう。
中には、部活動やクラブチームで、録音されたものと同じぐらいの勢いで怒鳴られた経験がある人も多いのではないか。
でも今は令和。
今の時代、指導者に求められるのは、いわゆる熱血指導ではないと僕は思っている。
(「いわゆる」というのは、怒鳴る・激昂する、などの目に見えた熱血指導という意味)
その理由はズバリ、以前よりも効果的ではないからだ。
僕は今年で24歳だから、いちおう「若者」に括られる(よね?)。
自分含め今の若者の多くは、正直なんでかわからないけど
怒鳴ったり激昂したりしてる大人を見ると
引いちゃうんだよな。
いわゆる熱血指導って、指導されてる側が、指導者がなぜ怒鳴ってるのか、その意図を感じ取ったり、反骨精神を高めたりすることで効果が生まれると思うんだけど
僕らは、こめかみに血管浮き出させて怒声張り上げてる大人を見ると
「うわ、めちゃくちゃ怒鳴ってるやん。」
と最初に引いちゃうから、そこに何かを感じたり「なにクソ!」と思ったりするまでいかない。
だから全然効果がないんじゃないかな。
横浜高校の監督は「本気で生徒と向き合ってる」と言ってるけど
本当に向き合えてるのかな。
もちろん横浜高校野球部の選手たちが、激昂する大人の内なる思いをちゃんと感じ取れる、高い傾聴力をもってる可能性もあるけど
きっと中には「ああまた怒鳴ってる」と、激昂してる事実のみ受け取ってる選手もいると思う。
それじゃあ向き合えてるとは言えない。
どうすれば伝わるのか、どう言えば選手たちが効果的に理解できるのか
本当に向き合えてたら、その工夫を凝らさずにはいられないはずだ。
僕らには幸いにも言葉という利器がある。
言葉はさまざまな使い方ができるし、使うタイミングや使用量によってまったく異なる意味を生み出せる。
なのにそれを疎かにして、感情という武器に完全に任せてしまうのは、ナンセンスの極みよな。
仮に感情をぶつけるとしても、その時は言葉に趣向を凝らして、相手にちゃんと伝わるように、相手が理解できるように。
選手が一生懸命練習に取り組むのと同じか、それ以上に
指導者も、指導の技巧や伝え方の工夫を、一生懸命考えなきゃならないんだと思う。
オンライン化が進む今の世の中でも、いや今の世の中だからこそ、やっぱり大事なのは、相手に向き合うことなんじゃないかな。
そんなことを考える、真面目な顔した昨日のぽてとであった。