日本の温かさと冷酷さ-想像力と対話

日本にはカナダにはない温かさと冷酷さがある。

私の感じる温かさとは、同じコミュニティのモノ同士助け合おうとする優しさ、思いやり。そこには損得勘定はなく、とても尊いことだと思う。

その一方で人の想像力を奪う冷酷さがあると思うのだ。


私は今カナダに住んでいる。インスタントコーヒーを買ってきて、フタを開けようとしても全然動かない。

逆回転ではないか。

自分の力が足りないだけか。

押しながら回す必要がある可能性もあるか。

そこに説明が何も書いてないからこそ対話しないといけないし、想像力が生まれる。


日本社会は綺麗にパッケージされて、すべてが行き届いている。

誰の力でも開くように工夫されているし、手順がすべて示してあって、クレームが来ないように注意書きもあって、誰も嫌な気持ちにならないように思いやり満載だ。

でもそれは想像力を閉じ込めてしまうのではないか。


カナダに一年以上住むようになって信号を意識しなくなっているとふと気づいた。

日本人の友人に言われて気づいたんだ。ちょっと私は怖くなったけれど、信号を全く無視しているわけじゃない。周りのカナダ人に影響されているといえばそうなんだけれども、本質はもっと深いのかなと最近思うようになった。

私は信号を「ツールとして参考」にしているけれど、他の感覚をもっと使うようになったんだと思う。


歩行者と車の往来が交わる場所に横断歩道や信号はよく置いてある。

歩行者と車は身体の大きさ、強さ、走るスピード、見えている視野、得意な動き方、すべてが違う。そういう「別の生き物が交わる場所」なんだなって思う。

別のモノと交わるとき、相手の特徴を知っているなら考慮して関わろうとする。知らないならば想像力を働かせる。何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か。私の言葉を使うならば「対話」が発生するときだ。

日本では横断歩道にみんな静かに止まって、信号が変わるのを待っている。車もそのルールに従うことで免許が与えられ安全に運転できることになっている。みんながそれを信じれば素晴らしい世界がそこにはある。でもそれだけが本当なのだろうか?


世の中にはまだ信号を強く意識できなくて飛び出してきちゃう子どもがいる。信号が青の時間内に渡りきれないご老人がいる。視覚障害があって渡ることが難しい人もいる。家族のために一生懸命働いて、心身が疲れ切っていて、それでも愛する家族のために早く家に帰りたいドライバーもいる。酔っ払いのドライバーもこの世界の何処かには必ずいる。

みんな同じ人間だし、歩行者だし、車なんだけれど、実はひとりひとり違った能力や背景、事情がある。

それなのに信号だけを信じていいのだろうか?

赤なのに飛び出してきたら殺してもいいのだろうか?

赤なのに飛び出してきて殺されたら殺したモノが全部悪いのだろうか?


動物は「普通」信号を理解できなくて飛び出してくる。ただ、想像力を働かせているモノもいる。

奈良の鹿が横断歩道を渡っている映像を観たことがある。彼らの世界だけで生きると信じ込んでしまえば、信号なんて気にする必要はないのかもしれない。でも彼らは「奈良県人」を尊重していて、対話をしていて、コミュニケーションをとる道を選んだのだと思う。奈良県人達も「奈良県鹿」を尊重しているからこそクラクションを鳴らして急かすような人は少ないのだと思う。

そこには深い愛があると思う。私は奈良県人と奈良県鹿を心から尊敬する。

ここまで想像力を働かせて初めて、「私は鹿を食べることはできない」と言った奈良県人の友人の気持ちがわかった気がした。


私はトロントの中心部ではありえないくらい安い家賃でシェアハウスの地下室に住んでいる。頻繁にではないが天井裏には何か動物が這い回ることがあった。初めはその得体もわからない相手が恐怖でしかなかった。

こんな家初めてだ。

怖くて、気持ち悪くて寝られない。

家賃は妥当だろうか。オーナーに苦情入れようかな。

罠を仕掛けられるだろうか。どうやったら出ていってもらえるか。

私が初めにとった行動は、YouTubeにある動物が嫌いな音をたまに流す。ノイズキャンセリングイヤホンをして寝る。気にしすぎないようにする。こんなところだ。

でも、良くも悪くも次第に慣れてくるものだ。

音の大きさからして、アライグマじゃなくてネズミの可能性が高いな。

何匹いるんだろう。

ああ、今日もか。慣れてきたけれど今晩はやめてほしいな。

遊んでいるのかな、ケンカしているのかな。

今日は外が寒いから家に帰ってきたのかな。

私より前からここに住んでるかもしれないね。

そんな対話を繰り返しているうちに、「仲良しの友達」まではなれなくても、「ちょっと気遣い合う同居人」くらいにはなってきた気がした。


学校の友達。

徘徊している浮浪者。

日本語をしゃべる日本人。

日本語をしゃべらない外国人。

優しい怪物。

冷酷な小人。

可愛く見えるワンコ。

汚く見えるねずみ。

あなたは誰と対話しようと思うだろうか。

あなたは誰とまでなら対話できるだろうか。


私はどんな人とだって、動物とだって、モノとだって対話できると信じるタイプの人間だ。
これが正解だとも思わない。けれどもそういう生き方が好きなんだ。


信じるモノは救われる。

確かにそうだと思う。


けれどもその信じるものからたまに外れてみて、別のモノを信じてみようかな。対話してみようかなって考えるのも悪くはないのかもしれない。

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