俳句のいさらゐ ☆♦☆ 松尾芭蕉『奥の細道』その五。「荒海や佐渡によこたふ天の川」
以前の記事、「俳句のいさらゐ 松尾芭蕉『奥の細道』その三」の「象潟や雨に西施がねぶの花」の解釈で私はこう述べた。
同じことが、「荒海や佐渡によこたふ天の川」にも言えるようだ。山梨大学、山梨県立大学両校の名誉教授伊藤洋先生のネットコンテンツ「芭蕉DB」( とても優れた論考で、読み物としても素晴らしい ) では、この句は、現場の実景とは異なる句だとして、こう説明されている。
🔷 句の解釈① 天の川に見ているもの
⦿ 佐渡と天の川は不離一体の心象
私が先ず目に止めるのは、
佐渡「へ」よこたふ
ではないことだ。芭蕉のいる頭上から海上隔てて佐渡へと向かい、天の川が掛かっているという光景ではないのだ。だから悠久の天空を仰ぎつつ、ここにいる自身の余りの小ささ、われの人生のうたかたのような儚さを憂いている、という趣の句だとは思わない。
佐渡「に」よこたふ天の川。
その表現は、海の彼方に静まっている佐渡ヶ島の上にこそ天の川がある、という見方であろう。言い換えれば、佐渡が天の川さえも統べていると言いたい気分なのだ。
句の題材に佐渡を選んだのは、佐渡がどこにでもあるような島ではないからだ。つまり、佐渡が盛んに金を産出する島であることにつながっているからだと思う。
芭蕉のいた時代、佐渡の金産出は、やや全盛期の勢いを失いつつあったとはいえ、印象としては黄金の島であったことだろう。そのイメージは、江戸にいたときから持っているはずで、越後路へやって来て初めて生まれたものではないから、上に掲げた伊藤洋先生の「芭蕉DB/奥の細道」に言うように、この句がその場での嘱目吟 ( 目に触れたものを即興的に詠むこと )ではないと言えるだろう。
日本海沿いを酒田から金沢へと向かう道すがら、海側に開けた地形であるため猶のこと、思いは海の彼方にある佐渡へと向かう。かつては、流人が送られるばかりの島であった佐渡と、今日の徳川幕府を支えている天領佐渡の歴史的変遷に思いをはせることが、だらだらと長く、また暑熱に苦しめられる越後路道中のささやかな慰めであったろうと思う。
旅の日々のいずれかの時点で、天の川の星々が芭蕉の目を射たことも必ずやあっただろう。胸中にある別々のイメージが、詩の中では融合する。これは、文芸作品を創作するとき、頻繁に起こる作用である。
⦿ 輝きの幻影を持つ島 佐渡
今日のように、佐渡の風土、伝統についてさまざまな情報がもたらされているわけではない。いわば、流人の島、黄金の島という幻影だけが、芭蕉の心に巣喰っている。
その佐渡を夜の海の彼方に想うとき、天の川の星々は、黄金の余映を空に描いたかのように、佐渡の島影を潜めた空で輝いている。暗い海を覆う夜空の、夏の銀河の瞬きに照らし合うものとして、鋳流した金の流れを思い、両像のイメージを重ねていると読める。
それは、『奥の細道』の中で、青葉若葉の日のひかりが、日光東照宮の輝きの形代でもあるかのように詠んだ思いに通ずるだろう。
🔷句の解釈② 荒海
⦿ 荒海は句作の上での演出なのか
夏の日本海はおおかたは穏やかで、海が荒れているとは言えないから、この句の荒海という措辞は演出である、という解釈があるが、そうは思わない。
「荒」は、波が立ち騒いで、うねりを生じているという意味だけを示すものではないだろうと思う。ざっくりとした、きめ細かさとは対照的な様子も「荒」ではないだろうか。「荒野 ( あらの ) 」が、大平原という語感とほぼ同じように私には思える。つまり、荒海は大海と言うに等しい表現だと。
⦿ 日本海を知らない者にとっての海
瀬戸内海地方に住んでいる私には、山陰で初めて見たときの夏の日本海は、荒海という表現を用いても違和感はなかった。大きく波が揺蕩っているだけでも、普段のおおかたは穏やかな海面しか見ていない者には、日本海そのものが「荒海」なのだ。細部が隠れ、波の音に敏感になる夜ともなれば、ことにその感は増す。
芭蕉も、内陸の伊賀上野に生まれ育ち、江戸に移った人である。太平洋の大波さえも、普段の暮らしの中では見ることはなく生きてきた人である。私には、芭蕉が選んだ表現としての「荒海」は、演出だと見なくても納得できるものだ。
令和6年2月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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