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元気を生み出す「余力の源泉」

父が、晩年によくマイルドセブンを吹かしながら、口にした言葉がある。

それが「お前も忙しいだろうが、たまには元気な顔を見せてくれよ」だった。



もう、父が亡くなって18年がたった。

仕事が忙しくなるにつれ、私は次第に実家を訪れる回数を減らしていった。


実際に、別に帰る時間が無かったかと言えば、そうではなく、帰る「余力」が残っていなかったと言う言葉の方がぴったりだったのかもしれない。

 
別に疲れ切っていたわけでもないし、無くなっていた「このよくわからない余力」も実際には何だったか理解できていなかった。


 
久しぶりに帰ると、玄関の扉を開ける前から微かに感じる家の匂いが、昔と少し違っているように思えた。

まるで家そのものが年老いてしまったかのような、そんな感覚だった。


 
一時体を壊した父が、健康のために禁煙をしていたためだ。

 
父は昔から口数が少ない人だったので、会話をしたという記憶よりも、マイルドセブンの煙の香りの方が記憶に残り、実際父との会話は、もっぱらモクモクした煙の中の父と、ニコニコしながらモジモジしている私であった。


 
それでも、職人技のような多彩なDIYのせいか、父の手先は器用で、不器用なのは言葉だけだと母が笑っていたのを思い出す。


 
私が幼い頃は、父が作った木製の人形やおもちゃで遊んだものだ。

あの頃の父は、無口ながらも背中に安心感を与える存在で、私にとってヒーローのような人だった。



そんな父も、歳を重ねるにつれて少しずつ弱っていった。


 
ある日、帰省した私を迎えに出てきた父の姿を見て、思わず言葉を失った。


 
かつてのたくましい背中は痩せて小さくなり、歩くたびに杖を突くその姿が、私の胸に刺さるような痛みを感じるくらいに見えたからだ。



その晩、父と二人でこたつを囲み、久しぶりに何気ない会話を交わした。


 
今回は2人とも終始モジモジニコニコしていたが、夜なのに「暖かい日向ぼっこ」のような気分だった。


 
相変わらず多くを語らない父だったが、不意に「昔、お前が泣いて帰ってきたときのこと、覚えてるか?」と言った。


 
私はその言葉に驚き、記憶を辿る。


 
思い出したのは、小学校三年生の頃、校外学習のバスの席を巡って、クラスメイトとうまくいかず、泣きながら家に帰った日のことだった。


 
父は何も言わずに、ただ私の隣に座り、手にしていた木の枝を削りながら時間を過ごしてくれた。


 
そのときの無言の優しさとマイルドセブンの煙の香りだけが、今でも心に残っている。


 
「体のためにタバコを止めたの、えらいね」と、父の背中をさすると、


 
「泣き虫であったお前が、こんなに立派になって俺は嬉しいよ」


 
父は照れくさそうに笑いながら言った。


 
その言葉を聞いたとき、私は何か込み上げてくるものを感じた。


 
父にとっては、ただの昔話のつもりだったのかもしれないが、私にはこの感覚が、どれほどの大きくて深い「いつも感じていた愛情」だったか、今になってようやくわかる。


 
そして、実は、私の毎日の元気の「何かよくわからない余力」を生み出してくれていたのは、この父との無言の会話だったことにずいぶん前から気付いていたのかもしれない。


 
その翌朝、帰り支度をしている私に、父は不器用な手つきで小さな包みを渡してきた。


 
「これ、お前に作ったんだ」


 
包みの中には、小さな木製のキーホルダーが入っていた。


 
昔、父が作ってくれたおもちゃを思い出させるような、素朴で温かみのあるものだった。


 
私はそれを手に取ると、思わず涙がこぼれそうになったと同時に、暖かい「いつもの元気」をもらったような気分になった。



 
「ありがとう、“これも”大事にするね」


 
そう言うと、父は少し照れたように頷いた。


 
そのとき私は、父の背中が小さくなった分、自分が今まで父からもらっていた「このよくわからない余力」を、今度は私が、渡せるだけ全部あげたいと思った。


しかし、この父からの「いつもの元気」が最後の元気となった。


私は、結局1度も「このよくわからない余力」を、私の手で父の肩からそっとかけてあげることすらできなかったのだ。


「親孝行をしなければいけない」という言葉は、親がいなくなってはじめて、その大切さに気づくといわれるが、私にとっては、実はそうではなかった。

「いつでも、どこからでも親孝行を感じることができるのであり、ただ、今までは、親孝行ができなくなったときのさみしさを想像すらできなかった」のであろう。

とすると、親の「いつもの元気」をもらう事こそ、親が元気でいる確たる証拠であり、それ以上の親孝行はないのかもしれない。

だったら、年齢関係なく、場所関係なく、何なら常に親孝行ごっこを本気で遊べば、それだけで良いのではないだろうか?


だから、来週の日曜日に、娘に思いっきり親孝行して遊んでもらおう???


えっ、ここは、自分がオヤジのことを思ってしんみりするところちゃうんか?

終了です。

皆さん、本気で親孝行ごっこを、又は、自分の大切な人ごっこで、本気で遊んでみよう。

そんな遊びの中からこそ「元気を生み出すこの余力」の源泉になるんではないだろうか。

おわり

ありがとうございました。

東野


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pene
今、日本の社会にある様々な歪を改善するための事業や活動をしています。具体的には、あらゆるクリエイターや基礎研究者の支援や起業家が生まれやすくなる社会システムの準備をしています。どうか御支援よろしくお願いいたします。