「枯れ木に花を咲かせましょう」
本当に久しぶりの投稿になります。
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Photo by Pixabay on Pexels.com[/caption]
どこかできいたことのあるような、耳障りのいい、何かの呪文にも似たこの言葉は、「ここ掘れワンワン」でおなじみの、「はなさかじいさん」が、御殿様の前で、枯れた木に見事な花を咲かせる時の非常に有名なセリフである。
心優しい老夫婦が、我が子のように大切にしていた愛犬「シロ」の形見の灰を枯れた木に撒くことで、見事な花が一瞬で咲き、お殿様から沢山の褒美をもらう、めでたしめでたしの物語だ。
しかしながら、以前、ある一風変わった物語の解釈を耳にすることがあった。
その解釈の中身とはこうだ。
「心優しいおじいさんとおばあさん」が大切にしていた愛犬「シロ」をイジメた上に、最悪にも殺してしまうなどの極悪非道な行いをした「意地悪な別のじいさんとばあさん」に向かって、亡くなった「シロ」を燃やした後に残ったその灰を吸ってしまった他の村人達が、急にゾンビに変身して牙をむき、最後はその「意地悪なじいさんとばあさん」を食い散らかすというホラー映画ばりの演出を勝手に加えてしまった内容になる。
その上、ある夕食時の行儀が特に酷かった当時3歳の息子に、彼はその物語の話をしてしまったそうだ。
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Photo by Pixabay on Pexels.com[/caption]
その後、彼の3歳の息子は、食事での行儀が良くなったまでは良かったのだが、「白い犬」だけでなく「白いバスタオル」までもを恐れるようになってしまったとして、少しの間、奥さんに「お風呂上がりに、白いバスタオルで息子の体を拭こうとするのを息子が嫌がる。」と、嫌みを言われ続けることになるのだが。
ちなみに、このシロの色は、言い忘れていたが、当然白色ということも付け加えておこう。
しかしながら、その友人によれば、自身も奥さんに言われるまで、この灰の正体は「シロ」の骨だと思っていたらしい。
このように、私の友人以外にも、間違って覚えている人も多い?ようなので、一応ここで簡単に説明しておこう。
ここに出てくる枯れ木に花を咲かせることができる「謎の灰」とは、亡くなった「シロ」を火葬した後に残った「シロ」自身の骨ではなく、「シロ」が亡くなって埋められた土地から何故か生えてきて、立派に成長した木から作った臼「ウス」を燃やした後に残った灰のことである。
「???」
つまり、この白い灰は「シロの骨」でなく、「木を燃やした後の灰」ということだ。
この事実を知った彼が、この物語を「シロの復讐劇」から、「心の優しいおじいさんとおばあさん」への「シロの感謝の気持ち」や、「心優しいおじいさんとおばあさん」の「シロへの愛情の深さ」を感じることができる作品にするために、Scriptを書き換えると意気込んでいたのを、私は最近まで楽しみにしていたのであるが。
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Photo by Ivan Torres on Pexels.com[/caption]
何故、シロが臼「ウス」になるまでに度重なる悲劇が起こったのかは、本物の「はなさかじいさん」を読んで、理解していただき、老後のコミュニティーの形成時の重要な教訓としていただきたい。
どの年代でも同じようなものだが、コミュニティーというモノは、お年寄りに限らず、全ての人にとっても、それほど平等で心優しいものばかりでなく、自我を押し殺して、おとなしくしているだけでは「安定した居心地の良さ」を担保できるような場所ではない。
どうやら「亀の甲、年の功」という言葉さえも、常に進化し続けるコミュニティーの中で、お互いに「譲り合いの心」や「尊厳を持った振る舞い」、時には「好感できるモノへの共有共感」を意識し合わないと、その「安定した居心地の良さ」の中に長期的に存在し続けることはなかなか難しそうだ。
どちらにせよ、この「シロのホラー物語」は、非常にバカバカしく、時には楽しい一方で、我々の「興味というものへの進化へのかかわり方」を非常に上手く表現している。
これこそが、友人の意識の中にある物語の記憶と、film director である彼の本来のエンターテイナーとしての多くの体験をミックスすることで、物語の内容が進化した一例ということなのだろう。
通常、我々の多くは、何かの話題を誰かに話すときに、「できるだけ面白おかしく話したい」という気持ちになることがある。
実は、我々の周りの多くの物語や、史実とされるものにすらこのような、俗にいう「モリモリ」や善意だけでなく、時には「悪意のある誤解」の発生を許すこともあり、当然、歴史に出てくる我々が足元にも及ばないと思い込んでいるヒーローや、ヒロインにもこのような「何となく作者やその時代の影響力を持つ人の都合」的な要素がないわけではない。
ただし、ここでは、皆さんの夢をつぶす話をしているのではなく、偉大な彼らも実は同じ人間であるということを特に理解していただいているだけで十分だが。
そして、そのような物語に様々な彩りを与えてくれるのが、正にこの「枯れ木に花を咲かせましょう」という様な「魔力を感じる言葉」で、時には、この「魔力を感じる言葉」が発されることで、我々の目の前に別のもう一つの世界が広がり、この物語と一緒に並行しながら、この言葉が自然発生的に、自由自在に騒ぎ続けるのである。
ちなみに、ここでの「魔力を感じる言葉」とは、我々が提唱している「ミームマーケティング」的に言えば、それぞれの言葉が様々な「進化を促す」ということになる。
決して、悪魔が持っている力や、なんか良からぬ力だけを意味するモノではないが、逆に「進化を促す力」とは、ある意味自分を追い込むときに使うことが比較的に多い言葉で、何らかの「覚悟を意味する」言葉にもなる。
故に、我々は、余計にこの発する言葉の力強さだけでなく、一種の恐ろしさまでを感じるときがある。
というのも、「この進化を促す」言葉とは、取り扱いを間違えると、人を深く傷つけたり、コミュニティーを簡単に壊したり、発する人自体にも大きな陰をもたらすだけの繊細さを持っているからだ。
時には、間違ったコミュニティーの中で縛られ、中にいる多くの人が身動きがとれなくなる危険性もある。
だから、多くの昔からのつながりや、厳格な世襲により、長いものに巻かれながらコミュニティーに対して強烈に依存している人にとっては、この「進化を促す言葉」を正しく認知して、有効に利用する事ができず、この創造性から生まれる大きすぎる恩恵を見過ごしていることに気づかない。
というのも、「我々の手に届かない、なかなか触れることができない奇跡」と長らくいわれてきたモノが「観察や認知、絶え間ない熟考や努力による成果」へと意識が変革するまでの「道しるべ」を、この「進化を促す言葉」が我々に示してくれる。
今まで不可能と言われてきたモノが、可能になる瞬間に直面するたびに、信じられない「魔法にかけられた感覚」を何度も味わうのである。
この「進化を促す言葉」のアルゴリズムの正しい認知は、通常、希望や勇気や、新しいアルゴリズムの発見に繋がることがあるのだが、人によれば、このアルゴリズムはコミュニティーを必要以上に信望する人にとって、人一倍面倒くさく思えるときがあるようだ。
今まで感じてきたことや、強く信じてきた物、何となく認知しているモノとの触れあいの時間が長くなればなるほど、認知的不協和が働きやすくなるからで、そんな中、目の前に長らく存在するモノの中に新しいアルゴリズムを見つけることは、それほどたやすくはない。
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Photo by Nikolett Emmert on Pexels.com[/caption]
ただ、この「枯れ木に花を咲かせましょう」は、特に「マーケットの中で生かせていただいているモノ」にとっては、どうも気になって仕方がないのである。
「枯れた木に花を咲かせる」というような魔法の行為自体は、実は、漫画や映画の様な世界だけでなく、マーケティングの世界でも馴染みのあるもので、地域活性化なども、正に「枯れ木に花を咲かせる」というイメージがしやすいモノの1つだ。
未来へ受け継ぐ文化や風習を上手く取り入れることで、それを巡る地域の人と、常に好奇心や安らぎを求める訪問者達とのサスティナブルなコミュニケーションがお互いに進化しながら地域に活性化をもたらす。
だからといって、決して、新しいメシアやアトラクションのみが新しい風や波を作るのではない。
肝心なことは、ここでの「枯れ木に花を咲かせる」ということは、相手を騙すという意味ではないのはもちろんだが、「全ての問題をいきなり一発で解決できる」ということでもない。
特に地域活性化のマーケティングに関していえば、この枯れ木に花が一旦咲いても、来年も、その後も長期に渡って花を咲かし、それを見る人の心を幸せにしたり、楽しませたり、時には、他の遠く離れた地域の賑わいにすら、長期に渡り良い影響をもたらし続けるという「影響力の波及効果」が現れて初めて、この「枯れ木に花を咲かせる」が文化の形成や保護に与える地域の役割の本当の意味が見えてくる。
バブル時代の日本全国に広まった第三セクターなどのアトラクションや、数十メートルを競い合った巨大仏像などは、決して「枯れ木に花を咲かせる」ことを踏襲できるモノではなかった。
どこかの国の組織やコミュニティーがいくら潤沢な資金を引っ張ってきても、プロジェクトの根幹を支える「枯れ木に花を咲かせる」ことができるアルゴリズムを明確に分析し、明瞭に地域へと認知させ、具体的に実行まで落とし込むことなしに、補助金にあぐらをかき続ける体質では、今も昔もこの先も不良債権しか生まない。
もちろん、仕事や人間関係意外にも、社会生活全てがそうである。
ただ単なる文化振興の為の情報発信、繋がりたいだけの情熱、目立ちたいだけのコンテンツだけでは、結局何の意味もなく、殆どが5年以内に自然淘汰される運命が確定されることは明らかであるが、そんな中でも希望に満ちたビジョンと「枯れ木に花を咲かせる」ことができるアルゴリズムを明確に認識し、明瞭に遂行し続けることができる人たちは、我々のすぐ近くでも勢いよくうごめいている。
そして、そのような人たちの周りには、多くの解決するべき、非常に面倒くさい問題が山積みになっていて、彼らは決してそれを他人事のように扱ったりしない。
そして、誰かが何かをすることを決して待たない。
そのような人のみが、仮に柳のドジョウの一匹目に間に合わないとしても、二匹目には自分にしかできないアイデアやマネージメントを元に新しい進化のアルゴリズムを体感できるのだ。
なぜなら、それらの問題を本気で解決しようと、頭を抱えて、本気で取り組む人のみがこれからの世界が必要とする人材で、彼らこそが、正に「枯れ木に花を咲かせる事ができる人材」である。と私は思っている。
そして、我々はこの「枯れ木に花を咲かせましょう」を「命を吹き込む」作業と呼んでいる。
そのためにはまず「何か仕事を下さい?何でもしますから」から早く脱出する方法から考えないと行けない。
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Photo by Engin Akyurt on Pexels.com[/caption]
次回は、この「命を吹き込む」に焦点を当てて話していく予定だ。
Pene 東野
本当に久しぶりの投稿になります。最近は、ミームマーケティングの個人の皆様への対応がなかなか難しくなっていまして、時間を見ては対応をさせていただきますが、当分の間はこのように不定期に投稿させていただくことに致しました。
よろしくお願いいたします。
今、日本の社会にある様々な歪を改善するための事業や活動をしています。具体的には、あらゆるクリエイターや基礎研究者の支援や起業家が生まれやすくなる社会システムの準備をしています。どうか御支援よろしくお願いいたします。