弱聴の逃亡日記「お母さん」

 国道4号線は人通りが少ない。滅多に人とすれ違わない。一日中歩いて10人とすれ違えば多い方だ。

 ただでさえ一人旅で孤独な弱聴。すれ違う人に自然と親近感が湧いてしまうのも無理はない。
 だから前方から赤ちゃんを抱っこしたお母さんが歩いて来た時、お母さんと赤ちゃんの愛らしさに、弱聴は目が釘付けになり顔が緩んでしまうのを抑えることが出来なかった。
 きっと変人だと思われただろう。お母さんは弱聴の方をちらっと見るなり表情が固くなり、目を合わせまいと足早に通り過ぎていった。
 それにしても若くて可愛らしいお母さんだった。私より大人びて立派な女性に見えたけど、きっと私より年下だろう。
 
 もう28歳にもなるのに結婚も出産もしていない私は、見た目も中身もまだまだ子供だ。ファミリー映画も未だに子供目線で見てしまう。

 私のお母さんは今、どうしているだろうか。そろそろ実家宛てに出した手紙が届くはずだ。
 手紙を読んだらきっと驚くだろうな。驚いて、おろおろと慌てふためいて、どうしていいか分からなくなって、私の名前を呼びながら、目に涙を浮かべるだろう。そんな母の姿が容易に想像できて、胸が苦しくなる。
 どうかお願いだから、あまり気に病まないで、私を信じて帰りを待っていて欲しい。

「お母さん」
 声に出して呼んでみたら、目頭が熱くなってきた。

 弱聴は最近、涙もろい。映画やドラマで感傷的なシーンになると必ずと言っていいほど泣いてしまう。特に家族ものや母親ものに弱い。主人公が「お母さん」と言うだけのシーンで号泣してしまったこともある。当然、前後のストーリーの相互作用があるから泣けるのだろうが、「お母さん」という言葉自体が弱聴の中では殺し文句になっているような気がする。

「お母さん」
 不思議な響きの言葉だ。その言葉を口にしただけで、心が温かくなったり、力が湧いてきたり、時にはきゅーっと胸が苦しくなったり、涙が出そうになったり。
「お父さん」という言葉でも感じるものはあるが、それとはまた違う。より強くて、温かくて、どこか切ない。
 それほど母親の存在は特別なものなのだろう。

 でも、どうして母親が特別な存在なんだろう?
 小さい頃からずっとお母さんが面倒を見てくれたから? 一緒に過ごした時間が長いから? 抱っこされたり、おんぶされたり、たくさん触れ合ったから?
 それともお母さんのお腹から産まれたから?

 思えば私もお母さんのお腹の中に収まるくらい小さい時があったのだ。それが今ではこんなにデカくなった。

 体ってすごく不思議だ。お母さんのお腹の中で自分が成形されたことも、お母さんのお腹から出てきたことも、小さい体が大きくなっていくことも。それら全てが自分の身に起こって経験してきたことだということも――すごく不思議。そしてどこか神秘的。

 妊婦さんのお腹もその神秘的な感覚に近いものを感じる。女性の華奢な体に似つかわないほど大きくまん丸く膨らんだお腹。頑丈そうに見えて、か弱そうな。身近なようで、遠いような。触れるとどこか神秘的で不思議な感覚になる。

 もしかしたら! 弱聴は閃いた。
 お母さんは赤ちゃんを授かった時に、神様から神秘的な力を授かったのかもしれない。

 日本には「八百万の神」と言われ、山や海などの自然やありとあらゆるものに神様が宿るという考えがあると聞いたことがある。
 それと同じように、赤ちゃんを授かったと同時に神様がお母さんのお腹に神秘的な力を与えてくれるのかも。
 赤ちゃんを包み込むように光るその神秘的な力は、赤ちゃんが出ていった後にもお母さんの体の中に留まって、脈々と体中に行きわたりお母さんに力を与え続ける。
 だからお母さんは、あんなにもエネルギッシュで、たくましくて、温かくて、愛情に溢れているのかも。お母さんを思い出すだけで色んな感情が湧いてくるのは、お腹を出る時に行き別れた特別な力が、お母さんの体に宿っているからかも。

「な~んちゃって」
 オカルトチックな空想をしてしまった。きっと疲れているせいだ。お母さんに話したらきっと笑われるだろうな。

 はるか遠い故郷への道中で、母の顔を思い浮かべながら、そんなことを考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?