弱聴の逃亡日記「国道4号線」

 11月24日 2日目
 午前5時。徐々に空が白み始めてきた。
 北浦和の公園で野宿していた弱聴は起き上がりつぶやいた。
「寒い。もうムリ。これ以上ベンチに横になっているなんて耐えられない」
まだ日は出ておらず辺りは薄暗いが、弱聴は荷物をまとめ始めた。

すぐに最寄りのコンビニに入り、イートインスペースで温かいコーヒーを飲みながら暖をとる。店内は特に暖房がついているわけでもないのに暖かく感じる。
「室内ってこんなにも暖かいんだぁ。室内って最高だなぁ」と独り救われた気持ちになる。

 朝食もとりながらたっぷり一時間はコンビニに居座った後、いよいよ二日目の旅路へ出発した。
 日は上り、朝の澄んだ空気が北浦和の町を包んでいた。早朝の静けさの中、人気のない繁華街を独り歩く。
 足を動かすと膝からギィーギィーと音が鳴った。筋肉痛の上に野宿で体を冷やしてしまったから、すっかり筋肉が固まってしまったのだろう。まるで錆びついたブリキのようだ。操り人形のようなぎこちない歩みで前進する。
 やがて道路には行き交う車が増え、通勤通学する歩行者も出てきた。学生服やスーツを着た人たちに混じって弱聴も一緒に歩いていると、自分が旅人であるのを忘れてしまいそうになる。
 歩いているうちに体温が上がり、錆びついていた足も動きを思い出したかのように滑らかに動くようになった。通勤する人がいなくなった頃には昨日の出発当初のようにスイスイと歩けるまでになった。
 (中略)
 工場が立ち並ぶ工業地帯を抜け、家々が連なる住宅街を抜け、大型ショッピング施設や娯楽施設が悠然と軒を連ねる広い道路を通り過ぎ、はっと思い出したようにのどかな田園風景が姿を現す。次から次へと変わる景色で楽しませてくれる埼玉の道路。歩道も広くてキレイで歩きやすい。が、
「しかし埼玉は広いな! どこまで行っても埼玉だ。栃木はまだなのか!」
弱聴は埼玉の広大さに嫌気が差してきた。
今、埼玉のどの辺なのか、あとどのくらい埼玉が続くかも未知(土地勘の無い弱聴が悪いのだが)。栃木県に入れば進んだ実感が湧くのに、なかなか埼玉を抜け出せない。
順路を書き留めたメモ帳もまだ手放せなかった。国道4号線に入ってしまえばあとは一本道、4号線を下っていけば岩手に着くのだが、その国道4号線がまだ見えてこない。
(中略)
「4号線よ、頼むから出て来ておくれ。お前が出て来てくれれば私はもう安心して歩けるのに。4号線に入ってしまえば、こんなメモなんか見ずに気楽に旅が楽しめるのに。そう4号線に入るまでが難関! その後は楽勝だね! 旅の半分をクリアしたようなもんだ。お願いだからそろそろ出て来ておくれ、4号線。あなたが恋しくて恋しくて仕方ないよ」
と、ぼやきながら歩いている時だった。春日部大橋を渡った次の交差点で4号線のマークを発見した!
「4号線、キターーー!」
嬉しさのあまり両手を上げて叫んだ。すぐに恥ずかしくなって瞬時に手を降ろす。
 標識には十字路交差点の縦棒に16号線のマーク(歩いて来た道)、横棒には待ち焦がれていた4号線のマークが記されている。
「やっと4号線に入った! 難関クリアだ! あとは楽勝だね!」
意気揚々と交差点をなんの躊躇もなく右折。
 だが5メートル進んで停止した。目の間に出現した標識に「上野」の文字がある。
「上野って、上野動物園の上野? 東京の上野? あれ、こっちが北じゃなくて南?」
 あわてて交差点まで引き返す。
「落ち着け、落ち着け。標識を見て確認してみよう。標識にある地名を見ればどっちに曲がればいいか分かるはず。えーっと…どっちも知らない地名だ…。どーしよー、これじゃ判断できないよぉ」
冷静に考えれば16号線を東に向かって歩いて来たので左が北で、右が南。北上したいので左に曲がれば良いのだが、
「あれ~? 右が北で、左が南じゃないの?」
弱聴は完全に方角を見失っていた。
「そうだ! メモを見てみよう」と、カバンから出してメモを開いてみるが、そこには「交差点で四号線に合流!」と肝心の曲がる方向が抜けている。
 私のバカ! これでは役に立たないではないか!
 ここで方向を間違えたら本当に東京に戻ってしまう。そんなバカな話があるか。
 しばし考える弱聴。ポクッ、ポクッ、ポクッ、チーン…
 このまま独り悩んでも埒が明かない。ちょうど目の前に靴屋さんがある。入って道を尋ねてみよう。
「あの~、すいません。道をお尋ねしたいのですが、北ってどっちですか?」
「えっ? 北ですか?」
 まずい! 変な聞き方をしてしまった! 道を尋ねるのに方角を聞く奴がいるか? 普通は、目的地を言うだろ! けど埼玉にいるのに岩手に行きたいと言うのも変だし…。何て聞けばいいんだ?
 相手の女性店員さんは「北…。えっとこっちが西だから…」と素直に方角を思い出そうとしていたが、曖昧な答えしか出てこない。それはそうだろう。いくら自分の職場だからといって方角を正確に把握していて瞬時に答えられるなんて、方角が関係する仕事か、方角を把握してないと気が済まない人か、とにかく滅多にいないだろう。
 少し聞き方を変えてみる。
「国道4号線を北上したいんですけど」
「それなら左じゃないかしら。日光や水戸方面が左なので」
「左ですね。ありがとうございました!」
 さっそく交差点に戻って左折する。すぐに「日光」や「水戸」の文字が入った道路標識を見つけ、一安心。だが、今後道を尋ねるときは聞き方にも気を付けないと。

とにかく、国道4号線に突入した! もう旅の半分をクリアしたようなもんだ! あと半分だ! 舞い上がってスキップをしてみたが、足が上がらず、躓いているようにしか見えない不格好なスキップになってしまう。
 しかし喜んでいられるのも束の間だった。
 4号線を歩き始めると100メートル置きに小さな標識が立っているのに気付いた。そこには「東京から〇キロメートル」と書かれている。どうやら東京から現在地までの距離を示したものらしい。
 弱聴がそれに気づいた地点では「東京から50キロメートル」と書かれていた。
「たった50キロ? まだそれしか進んでないの?」
 弱聴は愕然とした。
 東京から岩手県一関市までは約430キロメートル。50キロメートルということは、まだ8分の1も進んでいないことになる。
 4号線に入ればあと半分だなんて浮かれていたのに…。
 意気消沈。スキップしていた足取りが一転、ズドーンと岩が肩にのしかかったかのように体が重くなった。


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