弱聴の逃亡日記「スマホを置いて行った理由」

その事件以来、弱聴は自分とスマホの関係性について考えるようになった。
いわゆる「私とスマホ、どっちが大事なの?」的な話だ。

 今やスマホは、アプリを使ってより便利に生活を送ったり、電話やメール、SNSなどで人や社会と繋がったり、生活には欠かせない相棒であり、個人情報やGPSの位置情報が詰まった、いわば私の分身だ。
 うっかり忘れて出て来た日には不安で堪らなくなるし、誰かにスマホを借りて用を足そうとしてもやりたいことの半分も出来ない。またスマホと離れている間に誰かが自分のスマホを操作したら、自分に成りすまして悪さを働くことだって出来る。
 一緒にいる時は気付かないが、離れると不安になるし、他のものだと物足りないし、他の人に弄られたくない。

 私と私のスマホは二人でひとつ、一緒になって始めて正常に機能するのだ。
 そうやって考えるとスマホと私、恋人以上に深い関係かも。(恋人いないけど。)

 それから、スマホを使ってこんなことも出来る。
 例えばSNSで懐かしい名前を見つけた時、「この人、生きていたんだぁ」と失礼な感想を抱いたことはないだろうか。
 忘れていた間もその人はちゃんと生きていたはずなのに、自分の脳の中では存在しておらず、思い出した瞬間から息を吹き返し蘇った、そんな感覚。
 今でも多くの旧友たちは元気に暮らしているはずなのに、私は彼らを思い出すのも忘れ、私の脳の中では存在すらしていないことになっている。悲しいけど、きっと彼らの脳の中にも私は存在していないだろう。

 こんな感覚を経験して、弱聴はある仮説を立てた。
 普段何気なくやっている電話やメール、SNSが、実は生存確認あるいは存在のアピールに繋がっているのではないだろうか。
 たまに実家に電話をしたり、友達に「久しぶり! 元気?」とメッセージを送ることで、相手に自分を思い出させる。SNSに近況を投稿することで公共の面前に「自分はこういうことをやっている」と自分を宣伝する。
 そういった行為によって「私は生きているよ、存在しているよ」と社会に呼び掛けているのではないだろうか。たとえそれを意図していなかったとしても。

 もし、この弱聴の仮設が当たっていたとしたら、全ての人と連絡を絶ち、誰からも忘れ去られ、全ての人の脳から自分の存在が消え去ったら、たとえ自分は生きていたとしても社会的には存在していないことになるのだろうか。
 私はスマホとかなり親密な関係になっていて、そのスマホと存在アピール活動まで行ってきた。そんなスマホと別れて姿を消したら、一体どうなるだろうか?
 私が苦労するのは目に見えている。実際、今もホテルの位置を知りたくてスマホに頼りたい衝動に駆られているのだから。
 私ではなく周りの反応がどうなるのかが気になるのだ。友達のスマホ失踪事件のように大騒ぎするだろうか。私の身を案じて連絡をくれるだろうか。

 連絡をくれるとしたら、誰に連絡するのだろう?
 私自身? それとも私のスマホ?
 探すとなったら、誰を探すだろう?
 私自身? それともGPS機能を持っている私のスマホ?
 私とスマホ、どっちが大事なの?

 相棒であり分身である私のスマホ。
 充電を満タンにしてきたから、まだ電源が着いているはずだ。
 今も私のフリをして連絡を受け取っているのだろうか。
 いくら優れたスマホでも受信は出来るが送信は出来ない。心配していた人たちも返信が無ければ時間が経つに連れて私のことは忘れていくだろう。そのうち誰からも忘れ去られ、私を思い出す人はいなくなるかもしれない。そうしたら私は本当にこの世に存在しない人間になるのだろうか。

「私はここにいるのに…」
 誰もいない夜の国道で、弱聴は独り呟いた。


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